記事一覧
昔の話だが、会社に入社したての戦後間もない頃、ポータブルラジオと言えば小型(そのころ)真空管を使った6球スーパーヘテロダインというラジオが羨望の的で私たちはせいぜい安物の音の悪い並4という一歩遅れたもので満足していた。あるとき外国商社勤務の先輩にそのころの最先端であった、ソニーのトランジスタラジオを見せられて、将来給与が上がったら欲しいと思っていたが、なかなかその夢は達成出来なかった。そのラジオは、そのころの私の月給の3倍はした。遂にその夢は諦めてその頃手に入る部品を秋葉原に行って買って来て、自作する事にした。
なぜなら高校(旧制高校)の頃にラジオを手作りしていて、高校生が作ったにしてはそこそこの出来だったので、欲を出して同級の友人にも作ってあげていた。そのころから秋葉原通いが始まって、大学の初期まで続いていたからだ。
ついにある年の暮れから、かなり高級なオールバンド(注1)の無線機を組み立てる事にした。年末から正月半ばまでかかって、やっとのことで仕上げた。それを使って、世界中のアマチュア無線の信号を聞いた。そのお蔭で無線の世界の面白さにほれ込んで、ささやかなアマチュア無線を始めようとしたが、アマ無線の免許を取る手続きが煩雑なので、無線機を買うだけで免許不要な50チャネルの短波バンドでアマチュアバンドを始めた。この無線機は短い波長帯で、遠方には届かず、秋川大地の東側と北側あたりにはそこそこ届いたが、西と南は山で遮られ、思うようには通信が出来なかった。
そこでもっと遠距離に届くようにしようと考え、当時の自宅は鉄筋の二階建てであったので、屋上に360度回転する大型の八木アンテナを自作した。
手間がかかっただけあって電波の届き方が断然長距離になった。毎晩一生懸命努力したお蔭で常識では10km程度の送受信範囲が一挙に増加した。長距離に届くように大型の360度回転できるロータリーアンテナをつけると、何と全く電波の入らないところから、予想しない電波が偶然入ってくるのは本当に嬉しかった。北は那須高原辺りまで、東は筑波山辺りまで、南は殆ど電波が入らず、西側は奥多摩の山に阻まれて殆ど通信が出来なかったが、偶然に甲府周辺の電波が突然入って来ることがあって小躍りして喜んだことがある。電波を発信した方も、受けた方もお互いに知らないのに大喜びしたものだ。
そのころはこの種類の無線機を砂利トラックが積んで中間同士で交信していた。慣れてくると決まった相手がみつかって、車に乗せて地方に行ったときも運転しながら未知の人とも通話で大変楽しい交流が出来た。今は携帯電話でやっているが、その頃は手軽な手段がなく、違法ながらお互い夢中で楽しんでいた。その頃のトラック運転手には無線しか交信手段がなく、必然的に違法ながら楽しんでいたようだ、このトラック無線は言葉がやくざ風でその言い回しをしないと会話に入れてもらえなかった。この会話に入れると小型やくざになった気持ちだった。時々親切な運ちゃんが、スピード取り締まりがあるときに前もって知らせてくれる等のメリットもあった。そのころには、私の娘がやるようになって、より楽しくなった。
無線は、正式なアマチュアメンバーになると、大型の機器でも小型の機器でも世界を相手に昼も夜も交信できるが、免許を取る余裕がなく正式なアマチュア無線家になるのは諦めた。もし実現できて入れば、世界中の無線家と交信できたろう。無線交信の醍醐味は世界中の無線家と交信でき、その時に確認できた、ベリカード(注2)という無線局同士の交信確認証明書を交換してその交信国の珍しさ、特別な珍しい局、有名人、気象状況が何時も悪く滅多に繋がらない局、定置局でなく、たまたま珍しい場所に移動していた局など、ベリカードを交換して愉しむことが現在でも活発に行なわれている。
変わった交信方法では、人口衛星を中継に使った交信などがある。この方法だと通信環境が無い無人島からでも衛星無線で通話ができる。いまとなっては手遅れだが、アマ無線のライセンスを取って、無線機のもっとましなのを設備出来ていたら、家にこもって無線交信三昧画出来ていたと思うと返すがえす、免許の要らない無線局を始めたのが残念である。後悔先に立たずだ。
注1 バンド(=波長)アマチュア無線に割り当てられた周波数帯はアマチュアバンドまたはハムバンドと呼ばれる。
注2 ベリカードVerfication Card(ヴェリフィケイション・カード)の日本語的略語で、リスナーが放送局に送付する受信報告書に対して、放送局が任意かつ好意で発行する受信確認証(=ベリフィケーションカード)のこと。ベリカードはその国のアイデンティティーや、文化、お国柄などを表したデザイン、有名な建物や風景などの写真が印刷されている魅力的なものが多い。
2024-01-18 11:11:00
コメント(0)
幼い頃に ファーブルの昆虫記を読んで昆虫の素晴らしい行動に大変感激したことをよく覚えている。よくここまでに昆虫の生態を観察したものだ。相当な情熱と努力が必要だったと思う。その本がきっかけで子供の頃、昆虫や鳥などの帰巣能力に驚き、興味をもった。
今も行なわれているイベントに、伝書鳩のスピード競技があり、全国の伝書鳩を一定場所から同時に空中に放し、自宅鳩舎に到達する時間を競争する。出発点から同時に鳩を放すとそれぞれのグループは空を3回まわったのちに自分の鳩舎に向かってまっしぐらに飛んでゆく。出発点からの到着時間で順位が決まるようだが出発点の上空で数回空を回っただけで、目的地を即時見出せるなんて本能だとしても人間ではとても出来そうにない。
人間は頭を使って星かあるいは太陽を基準に航海術として進化させた。それに比べ昆虫、鳥などは自分の本能で行動する。
虫のなかで目的地に行ける本能をそなえている一番シンプルな例に蟻がある。彼らは外にでて獲物を見つけた時、大型で自分一人では持ちきれない場合は、巣に帰って援軍を頼み、餌と巣の間に人間の目には見えないフェロモンの道を造り、その道しるべの上を伝って往復する。ちなみにその道上の土を取り除くと、運送の隊列が崩れてしまうので、再度その道を探しフェロモンの道を造りなおすのに、暫くかかる。
ミツバチではもっと巧妙な仕組みがある。蜜を探しに出かけた一匹が巣に帰り、仲間の前でみつけた蜜のある場所を距離と方向を示す踊りで表現し誘導する。そしてその踊りで仲間が一斉に蜜のある方向へとびだすのである。飛んでゆく方向は太陽を基準にしているといわれている。
本能だけとは言えないかもしれないが、私が経験した帰巣例がある。昔、奥多摩の私の家に高円寺の牧師さんからダルメシアンの成犬を預かったが、一週間でいなくなった。そうこうしているうちに二ヶ月たって、牧師さんの自宅に帰ってきたと知った。どこをどう探して帰ったのであろうか。方向と嗅覚をたより迷いに迷って探しに探してやっと到達したのであろう。この場合はどんな機能を使ったのだろうか?今になっても謎である。
先ほど伝書鳩の事を述べたが、もっと壮大な例がある。それは世界をまたにかけた渡り鳥の例である。
この件については、写真クラブの仲間であり世界的な野鳥の専門家で工学のドクターでもある角南英夫氏に伺った。
それによると米国地質調査所の研究チームは、オオソリハシシギのメスに小型の電波発信機を取り付け人工衛星によって飛翔の経路を追跡した。それによってアラスカからオーストラリアの南のニュージーランドに到達までに約1万680キロを飛び続けたと判った。小型のオスは体が小さいため最長7390キロだった。この間飲んだり食べたりした形跡は全くないという。単純計算すると、11.680km÷(24時間×9)で時速54Kmとなる、此の飛行距離は現在のジャンボジェット機なら日本からヨーロッパまでの直行便クラス言えよう。飛行する方向は昼間なら太陽で夜なら星か地磁気だろうと推定されている。
人間はどうかというと、太陽や星を頼りに広い大洋を航海したが、現在では米軍が開発したGPSなるシステムで物凄い精度で位置、方向・高度を使って移動できる。人間は天然の勘に頼らずに益々機械頼りになりつつある。動物と違い人間本来が持つ勘に頼ることが益々少なくなるようだ。便利で安全と言われるコンクリートジャングルに住むのが幸福なのかどうか?なんの抵抗もなく人間の作り上げた世界に取り込まれるのが、幸福なことなのだろうか?
いま若者が都会を離れ田舎に住むのが流行しているようだが、はたして過疎化の流れに逆行出来るのだろうか。
2023-12-13 13:08:31
コメント(0)
1)ヒバリの三段鳴き
ヒバリの三段鳴きという言葉を聞かれたことがあるだろうか?
ヒバリが麦畑や川原で天高く飛んで鳴いていることはご存知だと思うが、その鳴き方には三種あることをご存じだろうか。
いわゆる“三段鳴き”と呼ばれている鳴き方で、雄のひばりが鳴きながら、はじめは決まった高さに上がりきる、語尾を上げる鳴き方をし、最高点に達すると違う鳴き方に変わり、降りるときには語尾を下げる違う鳴き方をする。鳴き終わって降下するときには、自分の巣から遠い場所に降り、自分の巣の位置を知られないような所に降り立ち、それから巣が蛇などに悟られないように自分の巣に歩いていく。そのために人間が巣を見つけようとするなら、親が巣に帰り着いた頃を見計らって近づき、親が驚いて飛び立つところを見て、その巣の位置を見つける。石の下とか草の根本に綺麗に草で編んだ巣の中に、ヒバリの子供が大きな口を開けるのを見た瞬間は大感激である。
本当に稀であるが、たまたま蛇がヒナを襲う場面に出くわしたことがある。その時、親鳥が自分が傷付いているようなふりをして蛇を巣から遠ざける様は 小動物でも子供を守る本能を見て感動した。
同じような事だが、巣にいるヒナも排泄物を巣の中にしないで外にお尻を出して行う、それを親鳥がさらに離れた所に持っていき、天敵から気付かれないような距離まで運んで行ってしまう。これらの一連の行動は、誰が教えることではない、親の行動もヒナの行動も長い年月の上で遺伝因子に起こった変異で伝わっていくのであろう、自然とは大変な事を仕出かすものだ。偶然にしては余りにも出来すぎだ。人間が、一番本能が少なくなった生き物ではないだろうか。
2) ライフル銃とデパート
男の子であれば誰でも一度は欲しくなるであろうものに鉄砲がある。私も例外無しで 戦後間も無い頃に向かいの山に遊びに行っていた時、米兵が二人いて、一人がたばこを咥え、それをもう一人の米兵がライフルで狙って見事に撃ち落としたのを見て、いたく感激した。どうしても欲しくなって、アメリカに住んで居た友人にカタログを頼んだ。アメリカはご存じの通り銃社会であるから、50ページを超えるカタログがそろっていた。猟に使うライフル銃から射撃用の自動拳銃、回転式拳銃など有名メーカーから小さなメーカーまで、世界中の銃が揃っていた。特にドイツ、スイス、ベルギーなども含め、ほとんどの国の銃が載っていた。私はその中から、ウィンチェスター16連発という、西部劇に出ていたのを選んだ。今にして思えば想像できないが、その頃は今と違ってデパートで銃まで売っていたので、 日本橋三越で買うことにした。今では想像できない事であろうが、何でもそろう百貨店として、銃まで販売していた。購入するには、警察に購入申請して、その許可証を持って行けば、いとも簡単に購入できた。購入後銃砲店に行き弾薬、ケースなどを求めれば全て完了する。
私の銃は射撃専用銃だったのでライフル射撃場でしか射撃できないため、埼玉県の富岡とか公式のライフル射撃場しかでしか射撃が許されなかった。ライフルスコープをつければすごい精度でヒットするが、残念ながら射撃練習にしか使えなかった、年間一度検査があっただけの戦後間もない時期であったため銃弾も好きなだけ買えたが、間もなく銃砲店占での乱射事件などで取り締まりが厳しくなり、16連発だった私の銃も最期には3発までに制限されてしまった。暫くたって、ライフル協会に入ってないと許可が出ないとういことで、残念ながらお上に返上してしまった。余談だがライフルの弾丸は制限なしに買えた。日本製はなくヨーロッパかアメリカ製で自由に購入できた。一番評判がよかったのは、スエ―デン製のダイナマイト・ノーベルだった。アメリカ製も良かったが値段の安かったソ連製は弾丸が的に当たらなかったり、時々発射しなかったり全くつかい物にならなかった。やはりお国柄が出ていると感じた。現在でもその傾向は残っているようだ。
私の持っていた銃は、22口径という銃の中では一番小さい射撃専用銃で狩猟には使えない。同じ銃だがオリンピック競技専用銃は世界競技用の精密な作りを必要としているために、メーカーは限られる。例えばドイツ製のアンシュッツとか限られた同じ製造でも出来が違ってバラ付きがでるため、一番出来の良いものは自国の選手にしか使わせないとされる。私の会社に学生時代に国体のライフル銃選手だった同僚がいて、いろいろ教えて貰った。彼もアンシュッツを使っていた。私の銃は競技射撃用ではなったが、正確にヒットするためには引き金の引き方がかなりデリケートで、銃身がブレないように静かに引く事が大変大事だと教えてもらった。銃身がブレないように静かに引く、これによって的の真ん中に適中するかどうか決まる。その経験のおかげで、写真機のシャッ―の切り方は大変上手になった。趣味の世界の事が仕事に初めて役にたったのである。
3) 切手集めと土蔵
小学校の頃切手集めが流行った。裕福な友達から収集ブックに挟んだ色々な切手を見せられて、大変欲しくなったが何にしろそのころは貧乏で大枚をはたいて購入できる身分ではなかった。古くは明治以来の1銭だとか五厘などの、今は単位が無い切手などと、特別サイズの記念切手など高価なものを見せられたが、何せ貧乏なことから指をくわえて見ているしかなかった。そこで当時私の家には蔵があることを思いだして、暗い土蔵の中に入って明治時代の古い箪笥を開け、昔の封筒やはがきを取り出して切手を探して切手帳に張った。その程度では全く収集とは言えなかったが、中学に行くようになって、親父さんが郵便局長をやっている友人Y君が出来て、そこそこ手に入れられるようにはなったが、Y君の様にはいかなくて、すばらしい切手を手に入れる夢しか見られなかった。
今でも思い出すのが、三銭切手とか、明治時代の複葉の飛行機の切手とか、縦に長い記念切手の見返り美人とかよだれが出るほど欲しかった。今でもその情景が目に浮かぶ。
それをきっかけにして色々な趣味に没入することになった。日本ではなく、外国の切手を見せられたが、高くて勿論手が出なかった。そのころ凹版の綺麗な切手がブラジルから出されたのを見たが、インクの凹凸があざやかに表現されていて、のちに印刷を勉強して始めて凸版、凹版、平版と三種も方式があることが分かった。今は千円札などに多用されている、精密印刷が、海外では多用されいて他国にも売れるように工夫されていた。
印刷と言えば普通の印刷でなく特殊な印刷が色々な分野で使用されている。たとえば通貨の紙幣がある。凹版印刷は特に日本の千円札、一万円札などで多用されていて精密さは世界一とも言われている。余談だが一万円札などは、偽造されないように隠し文字、磁気インク印刷、透かし、超微細文字などなど、印刷技術の粋が埋めこまれている。しかも印刷用紙も楮、三椏などの特殊な天然繊維が使用されているため、かなりの期間使用されても、十分な丈夫さを持っている。
印刷と関係ない様に見えるデジカメとかスマホのミクロン単位フィルターにも精密な印刷技術が密かに使用されている。昔よりも隠れた所にひっそりと印刷技術が使用されているのだ。古来の版画等に使用されていた手法が、いつの間にか先端技術に使われ、切手で利用されていた技術がいつの間にか現代の先端に使用されている。80年前には全く想像がつかなかった事が起こっている。便利という言葉で過ごしているが、何か“便利”という言葉で大事な自然を失っているのでないだろうか?
2023-10-20 11:06:56
コメント(0)
日本の色
社会人をやめてから久しい。齢90を過ぎ、コロナもあってお洒落どころではなくなった。それでも人々の服装など見ていると随分変化が起きている様だ。和服を着ている人をたまに見かけるが、本当に稀である。よいものを見ると付いて行ってみたくなる。たまたま、知りあいの女性から着物のサンプル見本を見せて貰ったとき、色についてはわたしも専門だが、日本の着物の色のデリケートさには本当に驚いた。例えば“老松(おいまつ)”は松の葉の色の地味なもの、゛樺茶(かばちゃ)“は茶色のくすんだもので、日本ならではの色味である。サンプルは縮緬(ちりめん)の生地に染めつけられたもので、総数で40種類を超えるものであった記憶がある。
この生地を使って今でも実用にしているもので思いつくのは、落伍界の師匠たちがきている着物類である。高座にあがって暫くすると羽織を後ろに落とす、ぬぐとは言はない、何ともイキな動作である、羽織を脱ぐというか落とすというさまである。絹織物であるから出来る所作である。そのほかに花柳界(今はそんな言葉はないか)では使われているだろう。
正直に言うと写真でもこの様な微妙な色が再現できる事が理想だった。この色目は天然の植物などから得られた染料で、その色標本には普通では見られない、色の名称だ。こんな優雅な名前が日本文化から消え去るのは、大変残念に思っている。 つい最近、オリンピックで何とも言えない、不可思議な色とデザインが使われたが、これ程の深い文化を持っている日本の良さが全く生かされていない。 誰がデザインし、誰がどんな意味で作ったかは定かではないが、何ともデリカシ―にかけた産物だ。 何処かの国を彷彿とさせる。大変残念に思うのは私ばかりではないだろう。
アメリカの大人のフォーマルなお洒落と日常の服装
アメリカ人は町で見ると相変わらずジーパン姿が男女とも多いが、夜のパーテイーなどだと別人のように女性は華かなドレス、男性は黒のタキシードと、大人の夜を謳歌する、あの切り替えは見事で羨ましい。
別な話だが、、パソコンの世界では昔から二つの派閥が有る。一つはビルゲイツが創設した皆様にもお馴染みのマイクロソフトのWindows派で、その会合では、皆ジーンズ姿で出席するが、昔から金持ちオタクの人種のApple系の人たちの集まりには、皆背広姿で現れると言われている。自由と思われるアメリカ社会でも画然と区分が存在する。1960年代、私が住んだニューヨークの狭いマンハッタンの中でもはっきりと貧富の差での棲み分けがあった。時々何処に住んで居るかと聞かれる事があるが、その住所でその人の社会レベルを判断される様だ。映画にも出るがマンハッタンの北東はノースイーストと言われ大金持ちの地区だし、ソーホーと言えば黒人の世界である。 今でも微妙な人種差別の匂いは避けられない。
お洒落の事に戻ると、むかし写真関係の、年に一度の大イベントがラスベガスで開催されたときに、コニカの社長に講演の話が来た。私はその講演の手伝いをする事になった。社長講演の準備段階で、イベントのアドバイザーの女性がやってきて講演に際しての服装などの細々とした注意があった。
日本ではそんなことは聞いたことがなかったが、記憶している限りでは、まず顔色から始まった。暖色系だと判断されて全体の配色の選択があり、次にYシャツの話に移り、ジャケットの袖からのYシャツの出方は2インチとか、襟の出方は2インチ半とかがか決めつけられる。ジャケットの色に合うような、ネクタイを選び、結び方はベルトのすぐ下までとか、カフスボタンは二つとも内外同デザインであること、背広の袖のボタンは4つボタンであるとか、ハンカチはポケットから何インチぐらい出すとか、微に入り細に入り注意をされた。挙句の果てには、顔にドーラン(主にステージメイクに使われるクリーム状ファンデーション)まで塗られ、さぞかし迷惑千万であっただろう。日本では考えられない細かいことを注意された。後で聞いてみると、アイビーレベルのクラスではそのような出で立ちでないと、失格だと聞く。どうしてそんな出でたちをするのか聞いてみたら、握手するときに袖から何からを一瞬で見抜いて、評価されてしまうのだそうだ。 そんな目で見てみると日本人はすべて失格だろう。アメリカで一人前になるには、ぞっとするほどエチケットのあれこれを勉強しなければならないだろう。会話から食事から、話し方まで。えらいことだ。でもそれに耐えないと、一人前に認められないのだろう。
日本人は気楽でよかったと思う。服装をあれこれ気にするのはせいぜい豪華船の旅の時ぐらいかな?
2022-11-28 17:29:52
コメント(0)
アナログ写真のメリットとデメリット
アナログ写真はおよそ100年の歴史を持つが、そのシステムの欠点は、殆どの作業が化学反応を使ったものだったという点にあった。水を媒体にする作業が主体だった為にどうしても全暗黒で、しかも水に溶かした薬品で処理しなければならず、非常に複雑な工程を経ないと写真画像が姿を現さない。そのうえ長年のうちにフイルムの種類が増えて、そのたびに処理方法が変化し、大変複雑な系列に分かれた。
そのために現像処理をする装置も多種にわたり、ますます扱いづらいものになっていった。その最たるものが、アメリカのイーストマンコダック社が開発したコダクロームという名称のスライド用カラーフイルムであった。
フイルムの層数は10層を越え夫々が違う色の光に感じるように設計されたモノクロームの感光層からできており、現像の時に着色するように出来ていた。それぞれ決められた層に決められた色を着色し、スライド陽画を造る神業のような化学処理を行うため、世界中の現像ラボが競ってそのライセンスを取った。
日本でも数か所がライセンスを取り営業していたが、その複雑さと管理の精密さ、全処理に手間がかかったため、一時は、世界中でコダクロームを現像できるラボは高い技術を持つ現像ラボとして全幅の信頼を得ていた。
もうこんな手間のかかる、生産性を無視した製品は再びお目にかかることはしかし余りにも面倒な作業ゆえに他のカラーフイルムとは全く別の扱いを受けていた。現像ラボとしては経営上有り難くない部分でもあったので、フイルム産業の末期には、ハワイのラボしか残らなかった。天然記念物にしてでも残したかった技術であろう。システム全体をスミソニアン博物館にでも永久保存出来たらと思う。
本音のところは、当時ドイツの写真会社のAGFA(アグファフォト)のフィルム技術の詳細はドイツ国内に秘匿されて米国は知ることが出来なかったため、もっと簡単な方式があったのに真似られないことがコダクローム開発の動機であった。
写真技術の輸出話
私どもが会社員になって10数年たったころ、映画用のフイルムプラントの輸出の話が、コニカにソ連(旧ソビエト連邦)と中国から来た。フイルム産業は世界でも企業数が少なく、世界的に独占企業であった。どちらかと言えば、ノウハウのかたまりであったので、輸出の是非についてはその可否を巡って大論争になったが、最終的には両国についてOKが出た。我社にはもともとプラント輸出部なるものがあって、自社のプラントを海外に輸出する業務を担っていたため、その部署がソ連、中国の両方を担当した。ソ連は比較的早期に輸出がはかどり、日本から材料を供給している間は少量ながらフイルム生産が出来たようだが、途中で全く中止になった。理由は純度の高い薬品が自国で生産できないためだったようで、機材も風雨にさらされて使い物にならなくなったようだ。一方中国は、途中までしか進まず、何人もの見学団が来たことがあったが、見学コース以外に数人がいろいろなところに勝手に入り込んだりして、トラブってその先には話がすすまなかった。技術を勝手に手に入れようとする中国のその性向は今でも起きているほかの問題と変わらない。
結局アナログフイルム産業は殆ど化学技術を応用したもので、いわゆる"水系"システムで、しかも全暗黒という制約の多い環境でおこなわなければならず、研究負荷、コスト、商業ベースの複雑さなどから見て"ドライ系"というデジタルシステムに叶わない必然があった。
デジタル写真発祥とブレークの歴史
日本でのデジカメの発表
日本でのデジカメのプロトタイプは1971年、ドイツの見本市で発表された新製品で、ソニーの"MAVICA"の名前で発表され、大反響を齎した。ただそのころは、画像をとらえるセンサーもデーターを記録するメモリーも、いまのデジタルカメラと大違いだった。メモリーはいまのような大容量・小型でなく、そのころの大型コンピューターに使われていたフロッピーデイスクが使われていたため、一コマの画像を取り込むのに数秒かかった。今のカメラとくらべると、月とすっぽんである。
その後CPU(コンピューターの頭脳)の長足の進歩によって4000万画素~5000万画素、ISO感度2~3万など画像認識技術などが大きく進歩、人の顔はおろか動物の識別能力なども急速に発展を遂げていて、木立の中の鶯を瞬時に識別し、ピントが合うようになってきた。今は良い写真を撮ろうと大型のカメラとレンズを使っているが、いずれはもっと小型で性能の良いカメラが期待される。
つい最近スマホ(アイフォン)で4000万画素を超え、しかもファイル形式が本格的な画像形式で得られるものが出現した。現在はA-3の大きさまで伸ばすまでは高級カメラと遜色ないプリントを得られる。画像を記録するメモリーもインターネットのクラウドを利用すれば数千枚は楽にとれる。フイルム時代は海外に出かけて1000枚の写真を撮ろうとすると36枚撮りのフイルムを持って行ったにしても、約30本を持っていく必要がある。上手くとれているかどうかは、撮影現場から帰ってからでないと判らない。今はそんな苦労をせずとも、その場で確認でき、時間と労力を考えるとデジタルが圧倒的に有利だ。
アナログ写真がなぜデジタル写真に負けたのか
アナログ写真は化学技術の塊であり、その中のハロゲン化銀は光半導体でデジタル写真のシリコンセンサーと同じ原理で出来ている。化学技術の粋の集積ともいえるハロゲン化銀アナログ写真において、一番ネックであったのは、水を使うことであった。そのためセンサーであるハロゲン化銀のサイズはデジタルセンサーのように規則的に同一サイズに揃えることは不可能で、感光素子(ハロゲン化銀)のサイズは自然分布になる。従ってアナログ写真では受ける光をそれぞれ違うサイズで捉えて画像にする典型的なアナログ方式であり、まさに化学技術の集大成ともいえる、
一方デジタル写真はエレクトロニクスの精緻な集大成と言える。その事情ゆえに、アナログと違って光が碁盤の目のように、おなじサイズのピクセルに当たって記録される。その記録はカメラ内の記録装置に蓄積される。そのデーターは電気的に拡大加工が自由にできることが有利に働いて、ますます発展進歩速度が増している。ひところ世界の80%を占めた日本の半導体の勢いは、いったい何処に行ったのだろうか。
しかしながら、アナログ技術のなかには素晴らしい技術遺産がある。そのなかで、シリコンウェファー技術、線幅1ミリの100万分の5程のパターンの加工精度、立体的感光性樹脂製造技術、などなどアナログでつちかってきたデジタルに不可欠な技術が多数あり、ますますその重要度が増している。デジタル全盛の時代ではあるが、アナログの優位の部分もまだまだ尽きない。
何故なら人間はアナログ信号しか感知できないからで有る。
2022-10-28 10:05:31
コメント(0)
写真技術は100年以上前から自分の見ている社会を画像にしようと大変な努力をしてきた。古くはダゲールの写真術から始まって、写真技法として確立するまでは銀メッキをした銅板を感光材として使ったために、日本では銀板写真と言われ、江戸から明治にかけて普及した。感度が大変遅かったので、撮影するのに30分から1時間かかった。そのため人物が動かないように、後ろに固定器具を使用した。その後ハロゲン化銀写真システムが銀板写真に代わって出現し、長足の進歩がなされ、白黒写真から始まって、カラー写真、映画用写真、印刷用フイルム、レントゲンフイル ム、赤外線フイルム、宇宙線用フイルム、など、ハロゲン化銀を使ったシステムが世界を風靡した。その間にシルバー・ダイ・ブリーチ、ポラロイド等のシステムも発表されたが、メジャーになることはなかった。
知られざる写真産業:ハロゲン化銀写真システムの写真フイルム
現在の銀塩写真注1(ハロゲン化銀写真)は第二次大戦前前から長足の進歩を遂げ、軍用では偵察用航空写真、射撃訓練用などにも使用された。また宇宙線用なども開発された。
一般には知られていないことだが、実際にフイルムを製造する際の製造ラインは、初めから終わりまで全暗黒である。考えてみれば当然で、光に当たるとカブってしまい商品にならなくなるからだ。しかも全暗黒の下で、最低13層ほどのミクロンオーダーの厚みの性質の異なる層を透明なプラスチックのフイルムの上に液体のままに一挙にコートし、乾燥させてしまうのだ。その技術を持っていたのは、大手ではイーストマンコダック、アグファ、富士写真、コニカの4社で、この4社が世界の需要を独占していた。当然ながら夫々の利益もかなり大であった。
使用する材料のメインは光に感じるハロゲン化銀という銀の化合物で、光りセンサーの役目をするミクロンオーダーの結晶とそれを分散保持させるバインダーとしてゼラチン10数層の異なった組成の超薄膜を保持する、透明なプラスチックのフイルムが主要な材料であった。
今だから話せる材料についていくつか裏話をしてみよう。
注1:銀塩写真は、乾板や写真フイルム、さらには印画紙に、銀塩を感光材料として使用する写真術による写真である。銀塩写真のうち、写真フイルムを使うものをフイルム写真という。銀塩写真用のカメラを銀塩カメラ、またそのうちで写真フイルムを使うものをフイルムカメラと称する。
主要材料である銀について
感光材料の一番主役のもとになる銀は、主にニューヨークの市場から入手していたが、写真会社は金属商社と同格に貴金属取引が公認されていた。銀相場は毎日変化するので、専門の担当が直接取引をやっていた。先物取引で損したり得したりしていたようだ。コニカでも数百トンを扱っていたので、相当の金額だったようだ。倉庫には、かなりの銀がインゴット(延べ棒)の形でうずたかくしまわれていたが、その光景を見ると、昔あったアメリカの銀行強盗の映画を思い出した。
銀は投機対象であったため、ある時期アメリカの投機家に買い占められて銀の価格が十倍ほどに高騰したことがあって、ニューヨーク市場でなく、ほかのソースを探したことがあった。出てきたのはなんとインドの上位カーストの金持ちだった。なんと飛行機で運んできたのだが、全部銀器類だったのは驚いた。金持ちでも桁が違った。
写真用にはそのままでは純度不足で使用できないため、少なくともテン・ナイン注2程度には純度を高める必要があった。実は感光体として使うのにはそのくらいの純度にしないと使えなかった。
注2:テン・ナインとは、半導体結晶の純度を示す値で、99.99999999%という限りなく100%に近い純度のことである。9が10個並ぶためにテン・ナインと呼ばれている。
銀はハロゲン(臭素、塩素、ヨウ素)との化合物として使うのだが、ハロゲン化銀の写真用として使う結晶は、デジタル半導体の素子と同じ半導体で、光りを当てると電子が流れる。そのような半導体理論が出るまでは、半導体と知らずに使っていた。人間の力というのは素晴らしいといつも思う。ただただ光に感じる方法を追及した結果、ハロゲン化銀に到達したのだから凄い。ハロゲン化銀結晶はブルーの光しか感じない。逆にシリコン半導体は、赤外線から可視光線までかなり広い感光性を持っている。それぞれをどうやって目的の色に感光性を与えるかは別の章で述べる。
ゼラチン
ゼラチンは一般的には食用ゼラチンとしてお馴染みで、ジェリーなどに使われているが、古くは膠(にかわ)として接着剤に使われた。写真用は主に牛の皮か骨から抽出したものが使われたが、一番上質の物を使っていた。食用は二番目だ。
ゼラチンは写真用が主流で、世界的にも大半が写真用に使われた。生産地は日本、ドイツ、アメリカで年間数千トンになった。 フイルムに使用される理由は、フイルムが 現像されるとき、現像液が浸透する必要があるからだ。一時代用品として人工ポリマーが考えられたが、日が経つと現像液が浸透しなくなり、使用をあきらめた。今でもゼラチンかわる代用品はない。天然ゴムの代用品が無いのと同じようだ。
フイルム支持体(フイルムベース)
ゼラチンにハロゲン化銀の多層を支持するのに、初めはニトロセルローズという素材を使っていた。むかし学校で使っていたセルロイドの下敷きに近い成分で、木材を化学処理したものだが非常に燃えやすい性質があり、しばしば、火事のもとになった。 むかし映画館でよくボヤが出たのも、フイルムの自然発火が元だった。そのために、より安全なセルローズアセテートという難燃性の素材に変更され、映画館のボヤは殆どなくなった。
フイルム支持体を造るときは、非常に平らな動く銅板のベルトの上に、セルローズ化合物の有機溶剤に溶かした液体を流し、数十メートル移動させながら乾燥し、非常に薄くてすこぶる平らで透明性の高いフイルムを、1ロット数百メートルの単位で作る。このフイルムの特徴は、平らで透明なだけでなく、縦横ともに方向性が無いことで、光の挙動を変えないことが必要であった。この製造方法で作ったものは無偏光であるために、次世代のデジタルテレビの最全面の透明層に大量に使用されている。このフイルムを造れる技術を持ったメーカーはフイルム産業しかなく、現在でも旧写真メーカーが最大手である。その他のフイルムは製造過程で強度を出すため、延伸方向に引っ張られるので、どうしても光の偏光がおこってしまう。縦横とも光が偏光しないフイルムは今コニカ、富士写真が世界の大手で有り、液晶の前面透明層に使われている。画面が巨大化すればするほど需要が大きくなる。ひょんな所にビジネスチャンスが有るものだ。
フォトレジスト
聞きなれない名前だが、フイルム時代の印刷の元版を作るときに、版のパターンを焼き付けるための樹脂がフォトレジストと言われ写真業会の得意分野であって主に印刷用に開発された、これの特殊な樹脂に大変なノウハウがあり、半導体の最先端の技術で日本が再大手で東京応化、富士写真などなどが有名である。
こんな経緯でアナログ写真は殆ど衰えたとはいえ、その時代の技術にはいろいろな分野に波及効果がある。
2022-07-21 11:39:23
コメント(0)
ニューヨークの仕事が終わって、帰国することになったので子供たちにお土産を買うことにした。
地図で見てマンハッタンのメイン通りの北の方におもちゃ屋があるが解ったので、そこに買いに行こうと思ったが、うまく探せなくて、道を歩いている人に地図を見せてその場所を聞いた。 ところが、道を聞かれた人が聞いた本人の私を無視?して三人の通行人が、今の言葉でいえば”超親切“に議論しだした。市内観光の時と同じだった。ニューヨークでは惨めな経験をしたというよりは、親切な人びとに満ち溢れているように感じた。勿論そんな甘い世間ではないことは承知だが、たまたま運がよかったのかも知れない。
恋女房にはブロードウエイにあるグッチでショルダーバッグを買った。その頃の有名店の中には人相を見て安全と思われる人だけ、ガードマンがドアのスイッチを解除して開けてくれるような、セキュリテイの厳しい店もあった。
帰る段になって事務所のYさんからユタ州ソルトレイクシティーの有名な教会でクワィアー(聖歌隊の合唱)が有るから帰りに見て帰ったら、と言われ、珍しいし、めったに行けるところでは無いので、勇気を出して行くことにした。その教会はユタ州の首都、ソルトレイクシティ-にあり、モルモン教本山のクワィアーで、クリスマスの特別公演だった。なんとも素晴らしい雰囲気でクリスマスの夕べを堪能した。モルモン教と言えばその昔、信者が、日本に来て信者の勧誘をしていたこを、ご存知の方も居られのではないか?
ユタ州は禁酒だと聞いていたが、うっかりしてホテルでウイスキーを頼んだとところ、売っていない、ということだった。不思議に思ってよく考えてみると、禁酒だったのにすっかり忘れていた、お粗末! 後で聞くことによると、バー以外で飲める場所があるとか、お金を払えば飲めるということだが、ホテルでウイスキーがあるか聞いただけで、そんな奥の手を教えてくれる訳がない。
そこから長い貧乏仕事を終えて無事に帰国した。これ程、全く想像もしなかった未知の世界に没入し、危険に耐え、仕事と言葉を覚えながら苦労したのがそれからの人生に随分役に立ったと思う。
There is a will, there is a way で、今でも懐かしい思い出である。
2022-03-17 16:48:20
コメント(0)
飛行便はそのころはアラスカのアンカレッジ経由で、アンカレッジで一度給油したので、1日がかりの旅程だった。東へ向かって飛ぶのだから、あっという間に日が暮れる。その時はわからなかったが、東に向かって飛ぶほうが西に向かって飛ぶよりも時差ボケが大きくなる。 さすがにいい加減な私でもコニカの中米事務所までは不案内なので、駐在員のM君が空港まで出迎えに来てくれて、事務所まで車で送ってくれた。当日は事務所の案内と、宿泊するホテルの案内に終わった。
事務所の案内で一番驚いたのは、トイレに行きたいと言ったら一緒についていくとのこと、まさか子供じゃないのだからと思ったが、事務所内でも防犯上、トイレは専用の鍵がないと入れないとのことで、それ程治安が悪いのだと知った。それからは一事が万事‘take care of myself ‘ だった。ラボの社名はBerky Mannhattanでトップの経営者はユダヤ人だった。事務所内にはアメリカ人ばかりで、当然ながら英語(アメリカ訛り)が飛びかっていた。ひとつだけ幸いだったのは、相棒になったアメリカ人がとても親切だったことだ。写真の仕事が専門であったので、用語は技術屋同士なのでだいぶ助かった。
事務所の場所はマンハッタンの北の有名な駅、グランドセントラルのすぐそばで、繁華街の北の場所にあった。あの911が起ったところからもすぐの場所だ。
一方ホテルはマンハッタンの南の黒人の多い地区で、貿易部長が言っていたように、暗くて、従業員も殆ど黒人で夜帰ると暗闇の中から白い歯だけが見えて慣れるまで時間がかかった。 ホテルと事務所の間はかなり距離があるのに加えて、危険だとのことで、往復ともタクシーで通勤するよう厳命された。それと一緒にタクシーの行き先は十分発音に気を付けてとの注意を受けた。例えば“60丁目” “16丁目 ”を区別できるように発音を十分気を付けるよう、つまり“シクステーイン”と“シクステイ”の違いをはっきりさせる事が危険を防止するのに大変大事だと、くどいほど注意された。
まだそのころは、ニューヨークの街中がマフィアの全盛時代で、毎日のように殺人がおきているとは、全く実感がなかった。そういえばホテルに泊まっていると、夜中に車のタイヤのパンクの音がするなと、思っていたが、それが後になってピストルの音と気が付いた。この町には色々の危険が潜んでいることが分かったが、“怖いもの知らず”とはこういうことをいうのだろうか。
マンハッタンでの仕事と生活 まずは会話
ニューヨークマンハッタンの街中で生活するのに一番苦労したのが、言わずもがな、会話であった。ヒアリングもスピーキングもなかなかおぼつかなかったが、会社のアメリカ人の一人に聞いたところ、“兎に角、喋れ,喋れ、一日中でも喋れ”と言われたので仕事はもちろん 知らない他人でも勇気を出して喋りまくった。タクシーに乗っても話かけ、しらない人でも意識的に会話した。
それでも一番苦手なのは、電話だった。これだけは慣れるまで、遠慮した。電話に出るときに決まり文句があるが、そんなにスムーズに出てこない。“ハロー、誰につなぎますか?”だけでもしんどかった。電話恐怖症になった。慣れてくればなんてことないのだが、電話にでるといきなり知らない会話内容が飛んできて、どう答えていいか、瞬時にはまったく判断できない。
ホテルの食事は味は塩辛いのを我慢すれば何とかいけたが、大したものにはありつけなかった、その中で大変嬉しかったのが、街頭で売っていた“アイダホポテト付きTボーンステーキ”で確か5ドル位だった。街頭売りにしては大変うまかった。ニューヨークは貧乏人でも暮らせる街だなとも思った。でもたまには日本食が欲しくなったが、簡単なものでも12~15ドルするから、そのころはめったにお目にかかれなかった。しかし日本食を食べるときだけはまともな日本語を話す機会に恵まれた。
ここまでは単独行動の訓練のようなもので、このころから単独行動が出来るようになったのだと思われる。今にして思えばその事が、大げさに言えば、その後の私の人生に大きな変革をもたらしたイベントだったと思う。
何も知らずに夜の市内観光
NYの仕事を始めてから、2週間ほどした頃、それまで全く市内観光をやる暇がなかったので、たまの日曜日の夜に、適当な夜の市内観光ツアーを申し込んだ。まだまだバスの観光案内の会話が聞き取れるレベルではなかったから、今にして思えば無茶としか思えない行動だった。市内案内の場所も良く聞き取れないまま、いきなり市内観光のバスツアーに乗り込んだ。5か所のホテルのバーに案内され、そのたびにアルコールをふるまわれかなり飲んだが、そのおかげで、バスの中でトイレに行きたくなった。ツアーは途中下車することが出来なかったが、緊急にトイレに行きたい!と単語の羅列で何とか途中でバスを止めてもらって途中下車はできた。しかし何処に行って良いかが分からないでいたところ、親切な乗客の一人が一緒についてきてくれて、とあるバーの中のトイレまでついてきてくれたが、そこは閉まっていた。外にでるとその人が待っていてくれて,上手くいかなかった事を告げると、更にもう一軒を案内してくれ、無事にOKになった。まさかこんな人がいるとは想像もしなかった。その人は私の下手な表現を見てとって、本当に困っている事を察してくれたのだろう。言葉のうまい下手もあるが、それよりも相手に伝えたいという気力のほうが大切だと、本当に実体験から学んだ。その件以来、会話は伝えたいという意思を大事にすることにした。そしてそれからは外国語の会話は出来るだけ単純な単語で話すことにした。それよりもむしろ発音を重視することの方が遥かに大事のような気がする。
話が少々外れるが、このことを書いていたら東京の地下鉄での出来事を思い出した。地下鉄の中で外国人の女性が四谷、四谷と叫んでいたのだ。それ以外は話せない様子だったが、それだけでもその女性が何をしたいのかが、誰でも分かる。流暢な日本語で聞かれるよりは、遥かに迫力があり何をしたいかが明白に伝わってくる。私のNYの件と同じケースのような気がする。
2022-01-20 12:28:19
コメント(0)
第二次大戦終結後アメリカによって日本の公的機能、民間産業、皇室などが大幅に、再起出来ないように改変された。
殆ど壊滅的に見えた日本が1960年代に不死鳥のごとくよみがえり、民間の企業はアメリカに追いつき追い越せとばかり猛追を始めた。
そのころ私もコニカに入社した。当時のフイルム産業は世界的に寡占で、主要企業数は再大手のアメリカのEeastman Kodak,ドイツのAgfa,日本の富士写真フイルムとコニカであった。日本勢はナンバーワンのKodakに追いつこうと必死だった。
我々も1960年代後半になってKodak並みのカラーフイルムが完成し米国市場で通用するものかどうかの市場テストを行うことになった。其のころは海外に出張するだけでも大変な時代だった。たとえば会社の役員が海外に出張するだけでも羽田まで部下が見送りしていた頃で、若造が一人で市場性のテストをするなんて、思いもよらなかった。 それでも適当な候補者がいなかったようで、私にお鉢が回ってきた。何となく「ニューヨークに行けるから」と安易に引き受けたが、 よく考えてみるととんでもない事だった。
何しろ英語も実際に話したことは殆どなく、技術関係の写真用語ぐらいは何とかなるぐらいだった。英語といっても我々が習ったキングスイングリシュではなく、アメリカ訛りの英語であることも十分理解していなかった。今だったら死んでも行かなかったと思うのだが。
具体的な目的は、ニューヨークのマンハッタンの中心街の写真ラボで、持ち込んだフィルムのテストをして市場性の可否を判断することだった。
何しろすべてが初めてだったので、まずはどこに泊まるかとか、通勤はどうするかとか、どのくらい費用がいるのかとか、誰と仕事をするかとか、諸々の事を聞けるのは貿易関係の部署に聞くしかなかった。現地のことについては、現地法人のコニカUSAがあったのでFAXでやり取りした。
ニューヨークは物価が高いと聞いていたので、貿易部長に聞いたところ大変な答えが返ってきた。君のレベルで泊れるホテルでは、命が保証できるところはないと。
出発の準備
先ずは、万が一のために現金を調達することにした。そのころも海外に出るときは現金の持ち出し制限があった。その頃のレートは1ドル360円の固定相場だった。今のほぼ3倍、安サラリーマンにとっては大変な負担だった。後でわかったことだが、NYは地方都市の3倍ぐらいの物価感覚だった上、チップが高く、低所得者にはかなりきつかった。止む得ず横田の兵隊さんからドルを買って持って行った。
羽田からNYラガーディア
次の問題はどこの航空会社にのるかであった。生意気にもどうせ乗るならパンアメリアカンと決めて出かけることにした。飛行機の手配などはコニカ自前の旅行社で手配した。その頃は既に結婚していたのでワイフと子供が空港まで見送りにきた。初めてのジェットだったので、すぐ先頭の方から乗り込んでしまった。いきなりスアチュワーデスが来て上着をハンガーにかけてくれたので随分親切だな、と思っていたら、暫くしてからまたやってきて、あなたの席はもっと後ろだと言われた。間違えてファーストクラスの席に座ってしまったのだ。あまりにも堂々としていたので、最初はファーストクラスの乗客と勘違いしたのかもしれない。
水平飛行になると乗務員が来て“coffee or tea?” と聞かれたのを”コーヒー“だけは聞き取れて、“or tea”が日本語の“O-CHA”に聞こえてしまい “コーヒーかお茶か?”と聞かれたと思って、随分親切だなあ、とおもっていたら、日本の緑茶ではなくティ-(紅茶)だった。なんとお恥ずかしい。
その頃は直行便はなく、アンカレッジ経由だった、長い旅だった!
これから次々と緊張の連続!!
2021-12-10 12:14:45
コメント(0)
はるか昔の事であるが、人生でこんな当たり年は初めてだった。
バブル時代で立川市にデパートが乱立し、景気が良かった頃のことである。
年末に買い物をした時に抽選くじを20本貰って相棒と半分ずつにして、ガラポン抽選器(新井式回転抽選器:一般的な、商店街の福引きなどに用いられる抽選器)で抽選することになった。どうせテイッシュぐらいしか当たらないと高をくくって、ワイフと別な列に並んでそれぞれの抽選をした。彼女は残念ながら、全部「空くじ」だった。私もせいぜいひとつくらい当たりがあれば良いと思って10本引いたところ、初めは予想どおり「空くじ」であったが、3回目から見慣れない白い球が出てきて、何やら文字が書いてあった。
不審に思っていると、抽選担当者たちが一斉に集まってきて、おめでとうございます!と言われたが、なんの事かわからなかったので5万円ぐらいあたったのかと聞いたら、違いますとの答えなので、ではハワイ旅行かなと言っても違います、との答えで、何があたったのかと聞いたところヨーロッパ旅行です、との答えがあった。
さらに残りの抽選をしたところ3本「当たり」が出た。こんなことは生まれて初めてだった。このとき私は仕事の関係で旅行にはいけないことが解っていたので、子供たちかワイフの何れかに行ってもらうことにした。最終的にはワイフが行くことになった。そのころにしては、かなり豪華な旅だったようだ。
年を越して暫くたって、車のバンパーが凸凹になってきたので修理したいと思っていた矢先に、駐車していた私の車がバックしてきた運送社のトラックにぶつけられて、修理が出来てしまった。当たり年というシャレにもならないが、こんな事は後にも先にもない。
こんなふうに年末の抽選以降の一年間くらいは何を引いても「空くじ」なしで、こんなことがあって良いのかと思った。
この一年で一生分の運を使ってしまったのではないだろうか。私は凸凹な人生のほうが好みなので、幸運を使い果たしても仕方がないと思っている。
話は逸れるが、このエッセイを出すのにMr.K.Araiとネットの掲載に尽力戴いているMrs.Yokoに不思議な縁で繋がったことも、金運は尽きたが人運がまだ残っているのかと感謝している。
2021-08-04 15:50:25
コメント(0)