榎本良三のエッセイ
榎本良三
今から7,80年も昔の話であるが、当時の拝島村役場(現在の昭島市役所拝島支所)の少し東側の奥多摩街道の反対側に、多摩川の河原の方向に行く道があった。そこを歩いて行くと立川堀にぶつかり、川べりの道を東へ歩いて行くと、田圃の中に安藤養魚場があり、低く長いような建物で、かなり大きな池にたくさんの鮎を育てていて、成長した鮎を東京銀座の自分の店に出荷していた。当時も今も鮎の養魚場などは多摩地区では他になかったので、私の記憶の中に残っている。
父は三等郵便局長(民営化以前の特定郵便局長)をしており、三等郵便局は請負制度だったので、私は父の後を継ぐ事になっていた。三等郵便局は、局舎は局長個人のもので、局長が提供していたが、それぞれの郵便局は部会と言うグループを作って、部会を通じて上司の指示を受けていた。私の勤めていた拝島郵便局は、立川・国立・昭和・拝島が一つのグループであった。また各局には「郵政監察官」という名前の人が来て、年1回、その局の業務の監査に当っていた。父はその監査を受け、金銭の処理に不正や間違いがない事を確認した上で、慰労の意味で監察官を安藤養魚場へ連れて行った。
私はまだ子供であったが、鮎を釣ったり塩焼にした鮎が食べたりしたくて、いつも父の後をついて行った。父の後をついて行って実際に鮎を釣ってみると、無数の鮎が池に密集しているのに不思議な事に鮎が良く釣れる事もあれば、全く釣れない事もあった。ずっと後になって考えてみると養殖している鮎には一日に1回か2回餌をやるから、餌をやった直後であれば釣れないのかとも思うし、天候の関係で釣れなかったのかも知れない。
その辺は良くわからないが、幼い私は父と監察官が養魚場へ行く時は必ず後をついて行った。
すでに公的な仕事は終っているので、私がのこのこ後をついていっても子供だから何とも言われなかった。その後、多摩川と支流・秋川の合流点附近に農業用水堰として設置された九ヶ村用水取水口も水道用の取水の量がどんどん増加し、多摩川の水位が低くなったため少し下流の多摩川・秋川合流点附近に1933年(昭和8年)に堰が設けられた。
これを七ヶ村用水堰と言い、堰から引いた用水路は立川堀と言った。
立川堀 昭和13年(1938)拝島村
武蔵野台地が多摩川に接する所はほとんど崖になっていてその崖と多摩川の間は水田になっていたが、その水田に引く用水路が立川堀であった。
立川堀 昭和31年(1956) 昭島市
立川附近の開発が進んで水田がだんだん減少して来たため、用水の水を利用する町村が共同で建設費用を負担していた堰の名前は九ヶ村から七ヶ村へと減少し昭和30年(1955)にはコンクリート製の堰として改築され、昭和用水堰と呼ばれた。
昭和用水堰 昭和54年8月(1979)昭島市拝島町
昭和用水堰 平成7年6月(1995)
しかし立川が用水路の費用分担から抜けても立川堀の名前は残った。その用水路は現在でも立川堀の名前で呼ばれている。
私は鮎の塩焼が大好物であったが、最近は鮎の塩焼を食べる機会はほとんど無くなった。それでも好物というとき鮎の塩焼を挙げるのは、あの安藤養魚場の鮎のおいしかった事を思い出すからである。安藤養魚場は私と仲好しだった息子さんが色々な事情で後を継がなかったため、一代で終った。もし息子さんが後を継いでいれば引続き繁盛していたであろうし、拝島村(昭島市)にとっても大日堂拝島大師・日吉神社の榊祭りとともに、重要な観光名所になっていたと思う。考えて見ると誠に惜しい残念な事であると思っている。
多摩川では私達はいつも按摩釣り(あんま釣り:小さな釣竿の先の釣針に川虫をつけて釣竿ごと水につけて動かす釣り)や
あんま釣り 昭和31年(1956)
瀬釣り(夕方すこし暗くなった時、川の瀬で短い時間アユ・ウグイ・ヤマベなどを大きい釣竿で釣る釣)をしていたがハヤ(ウグイ)ヤマメなどはよく釣れたが鮎はほとんど釣れなかった。
2020-07-06 10:52:20
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榎本良三
昭和の終りの頃一度行った事があるような気がするが、その時の記憶では梅の季節でなかった関係もあって、特別な印象は残っていない。しかし今回、2月17日に「府中郷土の森」に行った時は、梅が満開に近い状態だった。まだ少し季節が早いと考えていたが、今年は晴天の日が多く気温が高かったせいかもしれない。
いつもの介護サービスのかたに、車椅子に乗せてもらい、立川から府中郷土の森の入口までタクシーで行った。運転手さんが近道を知っていたので、その道を行ったら30分位で郷土の森の入口に着いた。
府中郷土の森 平成31年2月(2019) 府中市
以前書いた通り、府中は昔の武蔵の国の首都であるから、現在でも色々なものがある。たとえば新田義貞が群馬より兵を起して、この合戦で勝利し、そのまま一気に稲村ヶ崎から鎌倉幕府のある鎌倉に攻め入り、鎌倉幕府を倒し後醍醐天皇と共に建武の中興をなしとげた、有名な府中分倍河原の古戦場を始め、府中国府跡、大國魂神社などがある。後醍醐天皇はその後、公家の世から武士の世に変っていた政治を、再び公家の世にもどそうとしたので、武家の統領だった足利尊氏の反発を招き、後醍醐天皇の南朝と北朝とが対立する南北朝対立が続いた。 最終的に南朝が北朝に併合されて、足利尊氏らを中とした室町幕府が成立し、武士の世は続くのである。
これらは、江戸時代から長い時間をかけて編纂し明治になって完成した水戸藩徳川光圀の大著「大日本史」に細かく記されている。世間では徳川光圀というと、水戸黄門さまといって、全国をまわって善を勧め悪を正す「水戸黄門漫遊記」が講談・浪花節などで広く語られて有名だが、実際は水戸光圀の大著「大日本史」の中で南北朝のどちらが正統かなどを広く論じたことが幕末の尊皇攘夷論などに大きな影響を及ぼし、明治維新の原動力となった事は言うまでもない。
府中郷土の森 平成31年2月(2019) 府中市
神戸の湊川神社には、光圀が元禄5年(1692)に建立させた「嗚呼忠臣楠子之墓」の墓碑があるが、一介の地侍にすぎなかった楠木正成親子が、江戸時代すでに高い評価を受けていた事が何よりもこの事をよく示している。この時代すでに江戸幕府が安定していたのでこの様な書物が書けたのだろう。
黄門とは水戸藩主徳川光圀の隠居後の名前で徳川御三家の中、江戸に近い事もあって絶えず幕府の政治に係わっていた。
また、水戸には日本三名園の一つといわれる偕楽園があり、梅の名所としても有名である。他の二つは岡山の後楽園と金沢の兼六園である。
満開の白梅と紅梅の林をながめながら、その梅のトンネルの中で車椅子を時々止めてもらって、夢中で写真を写していた。
府中郷土の森 平成31年2月(2019)府中市
そのうちに、以前湯島天神の白梅を撮りに行ったことを思い出し、天満宮(天神さま)の話を思い出した。平安時代中期、菅原道真は朝廷で右大臣にまで昇進した。右大臣とは大政大臣、左大臣につぐ要職であった。また彼は学者としても有名であった(菅氏文集等)。しかし藤原時平の讒言によって、九州の大宰府に流され、ここで亡くなった。すると京都でまもなく大地震や大火災、またばけものが出たりしたので、これは菅原道真のたたりであろうといって、その霊を鎮めるため、大宰府と京都に天満宮が建てられた。 その後道真が著名な学者であったため、全国各地に学問の神として天満宮(神さま)が祭られた。道真の歌として有名なのがこの歌だ。
東風(こち)吹かば 思い起せよ梅の花 主(あるじ)なしとて春を忘るな
2020-06-11 11:55:19
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榎本良三
最初、庭園のある博物館のような所へ行く考えもあったが、そこが、開園する日が不定期であったので場所を変更した。「沢乃井」という三多摩では有名なお酒を作っている酒蔵である小沢酒造が経営している「櫛かんざし美術館」は、御獄の沢井にある。櫛かんざし美術館は、多摩川の上流の谷間の橋を渡った所にあり、その橋は小沢酒造のある所から少し手前にあったように記憶している。そこは駐車場も広く、建物も美しい建物である。パンフレットを読むと世界的に有名な岡崎智子さんの40年に渡るコレクションを中心にして収蔵されているという。私は岡崎智子さんを知らないが、おそらく北斎や歌麿呂の作品がそうであるように、外国の影響を受けない日本の伝統的な工芸品として評価され有名になっているのだと思う。私はそんな日本の櫛やかんざしをつけて、美しい女性の着物姿を連想すると何となく行って見たいような気になった。美術館まで立川からはかなり遠く、タクシーで1時間近くかかると予想されたので私はかつて車に1時間近く乗った所、途中で腰が痛くなった経験があり、また今回も同じような事になるかも知れないという不安もあったが、それを振り切って出掛けた。幸い今回はそのような事もなく、無事に美術館についた。
櫛かんざし美術館 2019年1月 青梅市
前述した通り、私は櫛やかんざしのことは何もわからなかったが、同行して頂いた介護サービスのかたが女性なので、そのかたに聞けば何とかなるだろうと思っていた。
美術館の中に入って見ると象牙や夜光貝で作った螺鈿(らでん)や、珊瑚(さんご)などをあしらった立派な櫛やかんざしが並んでいた。普通の人が使っていた櫛やかんざしも片隅の方に少し並んでいたがそれと較べるととても高級で美しく見えたが、一部の上流階級の人が使っていたのかなあという感じもした。
櫛かんざし美術館 2019年1月 青梅市
建物は3階になっており地下1階と地上2階の建物であり、私達は地上1階と2階の建物しか行かなかったが、2階では多摩川に向って反対側からガラス越しに多摩川を中心として奥多摩の美しい風景を見る事が出来た。
櫛かんざし美術館 2019年1月 青梅市
私は時々車椅子を止めてもらって、夢中でシャッターを切った。しかしガラス越しではやはり出来上った写真を見ると、どこが悪いと言うのでもないが何となく物足りないような気がした。
櫛かんざし美術館 2019年1月 青梅市
また館内には浮世絵も数点展示されていて、展示の内容について色々と解説の放送をしていたが、やはり素人の私にはよく解らなかった。若沖や北斎、歌麿呂などの作品についてはテレビで良く見ていたが、特に髪やかんざしだけをよく見ていたわけではなかったからである。しかしかつて、ある所で浮世絵の展覧会を見て、浮世絵の原画が意外に小さかったのが印象に残っている。この美術館に展示されていた浮世絵も同じように小さいと思った。彫刻した作品から刷ってブロマイドの様に売っていたのだから、小さいのが当然であろう。
美術館から出たときは、展示されていた櫛やかんざしが美しかったという感じがそれほど残らなかったが、美術館を出てもう一度建物を見てから、あらためて美術館の建物の美しさを感じ、こんな美しい建物は今まで見た事がないと思った。私にとっては美術館内の収蔵品と共に美術館そのものの美しさを見たことは大きな収穫だった。
櫛かんざし美術館 2019年1月 青梅市
タクシーで行く車内で、ずっと途中の町並を見ながら目的地まで行ったが、残念ながら現代日本の町並はただ色々な建物が雑然と建っているだけで、そこに美しさもなく統一もなかった。その点、木造建築だけで統一された江戸時代の町並の美しさにはるかに劣ると思う。
そんな事を考えながらタクシーに乗っていたが復路は下り坂なので往路よりはるかに短い時間で老人ホームに到着した。途中に昼食用弁当をスーパーで買ってもらい、ホームの部屋で一緒に食べて、1時頃解散した。
2020-05-01 11:17:08
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榎本良三
昭和19年(1944)に青梅線と併行して走っているとの理由で、五日市線の拝島・立川間の奥多摩街道沿いに走っていた部分は廃止された。何でもその使わなくなった線路は、タイとビルマの間の鉄道を引くのに利用するとかいう噂であったが、実際に線路が取外されたのは、太平洋戦争の終戦の2日前であった。しかし、戦争が終った直後は、毎日の食べるものにも困るような状態であったので、沿線の市町村の人々も、復活運動をする余裕が無かった。したがって私達は村から1.6キロもある拝島駅へ行くには、バスか歩くしかなかった。
しかし多摩川の支流・秋川沿線に行くには必ず五日市線を利用しなければならなかった。多摩川を鉄橋で渡ると東秋留駅と西秋留駅・増戸駅などの駅があり終点が五日市駅であった。その後秋川にそって走る五日市線の沿線の村々と五日市町が合併してあきる野市となり、西秋留駅は秋川駅と名を改めた。
「あきる」とはこの辺の古くからの地名であり合併時、それに武蔵野にならって野を付けて、「あきる野市」と言う名前にしたという。
東秋留を降りるとすぐ近くに玉泉寺と言うお寺があり、その住職のN君が私の旧制府立二中(現立川高校)の同級生で、5年間五日市線で一緒に通学した親友であった。
二宮神社 平成31年4月(2019) あきる野市
玉泉寺のすぐ近くに府中の大國魂神社とともに多摩では古い歴史を持つ二宮神社があり、「国常立尊(くにとこたちのみこと)」を祭神とし9月9日の祭りの日には露店でやっている「生姜市」が有名であった。私はお祭り当日、N君の所へ寄ってからお祭り見物に出掛けた。
二宮神社 平成31年4月(2019) あきる野市
当日は神社客殿では、現在「二宮歌舞伎」と言われている歌舞伎を地域の人々だけでやっていたように記憶している。私はいつも、お祭りの神輿や、当時近辺でも珍しかった奉納相撲を見たりして、露店で鯛焼や蛸焼などを食べ、家に帰るとき御土産に「生姜」を買って帰った。瑞々しい黄色の根っこで辛味があり、おいしい御飯のおかずだった。最近ある人に話したら、「生姜市」なんてあるのか、と目を丸くしていた。
同級生のN君は旧制中学の成績は同じくらいであったが、彼は弘前の旧制高校に合格し、そこから京都帝大の建築科に入り寺院建築を専攻した。卒業後東京都の建築関係の部署に入ったが、そこで労働組合運動に熱中したため、コミュニストとみなされ、東京都を解雇された。その後、村民多数の意志により父親の後を継いで玉泉寺の住職となった。村民のなかにはあまり暴れられては困るという声もあったようだがそれは小数であった。私は彼に会うたびに、あなたは寺院建築を専攻したのだからこの寺の境内に小さくても良いから自分の建築家としての考えを表現したような建物を残すよう、再三勧めたが、結局実現しなかったようだ。彼は若い頃胃腸の病気にかかった事があり、そのような病気で60才位のとき亡くなった。私は数学が不得意であったので、旧制高校受験も考えたがそれは断念し、当時特定郵便局長は世襲制だった事もあり、結局東京商科大学(現一橋大)専門部と逓信官吏練習所(現郵政大学校)を受験し、卒業後拝島郵便局長を世襲することになった。当時N君の奥さんから「主人が寺院関係の行事で海外に行くとき、わたしを一緒に連れていってくれない」などという苦情めいた話を聞いた事もあったが、奥さんもN君の死後後を追うようにまもなく亡くなられた。寺の後を継がれた息子さんとは、口を聞いた事がなかったので玉泉寺とのつきあいはそれで終った。 春などは五日市線に乗ると、東秋留と西秋留のあたりは線路の両側に梅林(註)がずっと続いていてとても美しかった。 秋川駅(西秋留駅)の北側はずっと平原になっていて当時は東京都で最後に残った盆地「平野」とか言われていた。駅の南側には4月初めには1本の桜が美しい花を咲かせていた。その頃私は写真撮影のため、色々な所へ行ったが、駅の構内に満開の桜が咲いているのを見たのはこの時ただ一度だけである。
駅の南側はなだらかな坂になっていて、秋川の岸まで通じていた。その道を滝山街道といい、少し行くと牛沼の部落があり、昔は牛沼村と言った。ここに妻の母の実家があり、実家の坂本家は江戸時代から続いている八王子千人同心の世話頭格の家であったという。私も一度か二度行った事がある。そこから更に滝山街道を行くと雑木林の中に石碑があり、あとで聞いた所では、この碑は小学校の教え子有志たちによって建てられた坂本龍之輔の顕彰碑であるという。
坂本龍之輔顕彰碑 令和元年5月(2019) あきる野市牛沼
坂本龍之輔は、妻の母の実家の出身であったそうで、その名は知っていたが詳しくは知らなかった。彼は明治中期に活躍した教育者で、小学校の教育こそは人間形成の基本である、と確信して情熱をそそぎ、転勤した下谷区の小学校で、都内でも多数のこどもが奉公に出されたり、子守りや手伝いをさせられ、貧しくて学校に行けないでいることを知って、貧民学校の設立に取りくみ、「東京市万年尋常小学校」初代校長となった。彼は、昭和17年(1942)3月、73才で生涯をとじたが、この顕彰碑が下谷万年尋常小学校の教え子有志によって建てられ、教え子である添田知道が龍之輔をモデルにした小説「教育者」を書いた。私が50~60年前に見たのはこの碑であったが、雑木林の中に雑草におおわれて、訪れる人もなく建っていた。私は、少し前に訪れた、明治の小説家で「武蔵野」の著者「國木田独歩」の記念碑が玉川上水の三鷹と武蔵野市の境の所にあって、やはり夏草に覆われていたのを思い出して少し寂しい気がした。
註 記憶では梅林だったと思うが、現在秋留駅の近くは桜の名所がたくさんあるようで、梅ではなく桜であったのか定かでない。
2020-04-13 16:12:54
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私の家は、武蔵野平野が多摩川に接する段丘の上にあった。その段丘は地質学上は、拝島段丘、立川段丘、青柳段丘(国立市)と呼ばれ崖になって多摩川に接していた。したがって家から崖を降りると、多摩川の堤防まで300メートル位であったので、小さい時は、四季を問わず毎日のように多摩川に遊びに行っていた。
昭和29年(1954) 昭島市
多摩川の堤防に上ると、すぐ下に河川敷があり、その先に多摩川の本流があった。流れを挟んだ先には真正面に、戦国時代に大石氏ならびに大石氏の婿養子となって三多摩方面を領地とした北條氏照が加住丘陵(多摩川と秋川の合流点の南側にある丘陵で北丘陵は滝山丘陵と呼ばれる)の上に築いた滝山城跡と丘陵の下の瀧村・高月村・丹木村(現八王子市)があった。上流の方を眺めると大岳山をはじめ奥多摩連山がつらなっていた。
この様な拝島側から見た風景のうち、多摩川の河川敷に、秋になると女郎花(おみなえし)と河原撫子(かわらなでしこ)がぎっしり咲いている美しい風景がとりわけ心に残っている。女郎花は黄褐色の花で高さは最高2メートル、河原撫子は高さ数十センチで色は淡紅色の花を咲かせる。私は黄褐色の女郎花と、淡紅色というより白い花の河原撫子がぎっしり咲いているように見えたその印象の強さから、その2つが入っている秋の七草の名前はすぐ覚えた。すなわち、「萩・桔梗・葛・藤袴・女郎花・薄・撫子(はぎ・ききょう・くず・ふじばかま・おみなえし・すすき・なでしこ)秋の七草」という歌である。
平成10年11月(1998)昭島市
一方春の七草の歌もあると聞いていたが、そちらの方はあまりよく覚えていなかったので辞書を引いて見ると「芹・薺・御形・繁縷・仏座・菘・蘿蔔(せり・なずな・ごぎょう・はこべら・ほとけのざ・すずな・すずしろ)春の七草」である。
私は春の七草より秋の七草の方が強い印象を持ち、よく覚えていたので秋になるといつも暗誦し人々に教えていた。
ただこの歌をよく内容を考えないでお経のように暗誦したが、みな聞いているだけでべつに異論を持ったり、内容について質問したりする人もいなかった。
昭和32年(1957)昭島市
旧制中学(府立二中、現都立立川高校)3年の時、国語の時間に先生から秋の七草とはどんな草か、と質問があった。私は手を上げて、萩・桔梗・葛・藤・袴・女郎花・薄・撫子(はぎ・ききょう・くず・ふじ・はかま・おみなえし・すすき・なでしこ)とするすると答えた。すると誰かがそれでは八草ではないか、と誤りを指摘したので、級の皆がどっと笑った。
何と私は藤袴の事を、藤と袴の2つに分けて別の花だと思って発音していたのである。それは正に級友の指摘の通りであった。しかし国語の先生は私の事を気の毒に思ったのか、七草にもいろんな考え方がある、とか言ってその場を納めてくださった。私は今でも先生の事を有難く思っている。
よく調べて見ると藤袴は高さ1メートル、全体に香りがあり、秋、茎の先端にうすむらさき色の小さな房状の花が多数咲くというが、私はまだ見た事がなかった。だからそのような誤りをおかしたのである。私は学年男女1クラスで37人しかいない村の小学校では優秀な成績の生徒であったが、三多摩じゅうから生徒が集る旧制府立二中(現立川高校)ではクラブ活動もしない地味な生徒であった。当時学校の運営は1年生の時は級長がいたが2年から数名の学級委員が任命されて運営されていた。学級委員には成績の良い生徒が任命されていたが、私は優秀な生徒が皆陸軍士官学校や海軍兵学校に4年で進学したあと、5年になってやっと学級委員に任命された程度の生徒だった。しかし4年で陸士や海兵に進学した生徒は皆、アメリカとの太平洋戦争で戦死された。こういう形で秀才を失うのは残念な事だと今でも思っている。
1年の時級長だった人は「海ゆかば」の作曲者として有名だったN氏の息子さんであったが、旧制浦和高校に二中から進学されたあと、結核で亡くなられたと聞いている。
春の七草については結婚して数年過った昭和23、4年頃、その頃どこの家でも1月7日に七草粥をつくっていたが、当時家では七草粥に普段たべる野菜を入れて食べていた。
昭和15年(1940)
しかし妻が嫁に来てから、厓下の田圃のあぜ路で、芹や薺を取って来て七草粥を作ってくれたその初々しい姿が、新婚時代の思い出として今も楽しく思い出される。
2020-03-09 12:41:44
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平成30年4月3日(2018)私は介護サービスの「たすけあいワーカーズパステル」のかたに車椅子に乗せてもらって小金井公園に花見に出掛けた。昔から私は小金井の桜に憧れていたので、今年の花見は小金井と決めていた。国立駅前から直線につづく見事な桜は何回も見ていたので、今度は別の所へ行って見ようと思っていた。往復には私は94才で足も悪いのでタクシーを頼んだ。
60年位前に、私は今回行ったのと反対側の、根川の川辺の道を通って小金井公園へ行った事がある。考えていたより広い公園で、その時写した写真は私のまとめた5冊の写真集の中の1冊に1枚だけ納められている。その時はまだ公園に桜は植えてなかった。小金井公園の桜が植えられたのは、小金井資料館の桜守りと言われている人の話では、60年程前だと言う話だから、私が60年位前にここを訪ねた直後あたりの事だろうと思っている。
五日市街道から左へ曲るとすぐ小金井公園で、正面には「江戸東京たてもの園」と呼ばれている宮殿のような立派な建物が見えた。あちこちから古い建物を移築したと言われている。
その建物は通路の一番奥にあり、その建物の前に、入口から通路の両側に満開の桜が咲き乱れていて、通路の前の方は公園の中をぐるり一周出来るようになっていた。私は車椅子を押してもらって満開の桜を思う存分楽しんだ。
小金井公園 2018年4月
今年は気温が高かったため、桜の開花は例年より少し早く、満開ではあるが少し散り始めた所もあり、花吹雪が体に降り注いで花びらで地面が一杯になっていたが、花は「染井吉野(ソメイヨシノ)」が大部分のようだった。
小金井公園 2018年4月
桜には色々な種類があるが、私は平凡のようだがやはり染井吉野と、野原に山を背景に1本だけ咲いているしだれ桜の大木が一番好きである。
小金井公園 2018年4月
タクシーの往復には行きも帰りも玉川上水にそった道を通った。私が憧れていたのは「小金井堤の桜」といって多分、玉川上水にそって植えられた桜の事であろう。
事前に桜守の人から聞いて小金井公園で咲いている桜が一番美しいと言うのでそちらを優先したが、往復に通った小金井堤の桜もタクシーの中から見ただけだが所々に美しい花を咲かせていた。
何でも玉川上水の両側の桜は咲く季節が異なる色々な種類の桜が植えられているという話を聞いているので、あるいはその関係かも知れない。小金井堤の桜は小金井公園の桜より古く、明治初期に植えられたものと言われている。
次に来る機会には、玉川上水沿いの道を、桜の咲いている季節に見たいと思っている。
富士と桜は日本国の象徴と呼ばれている。例えば梅は中国が原産地と言われており、他の多くの花が原産地を他の国にもっているが、桜(とくに染井吉野)だけは日本古来の花と言われ、美しく咲いてはかなく散って行くところから「武士道の真髄」とも比較されている。
したがって桜は、古来多くの人々によって、歌に歌われている。私はその方面の知識にうといのが残念だが、俳句としては、桜の美しさを奈良の美しさに例えた芭蕉の句「奈良七重七堂伽藍八重桜」が有名である。和歌では、天智天皇が大化の改新によって開いた琵琶湖の近くの大津宮が、その子供大友皇子(弘文天皇)が壬申の乱による天武天皇との皇位継承の争いに敗れて、都も明日香に移され荒廃しているのを見た平家の頭領の平忠度が、源氏との戦いに敗れて一ノ谷へ向う途中、友人の歌人に託した歌「さざなみの志賀の都は荒れにしを 昔ながらの山桜かな」などが知られている。
戦時中にも「おまえと俺とは同期の桜」などと言う歌が流行した。唱歌の「さくらさくら」を始め、数えきれないほどたくさんの歌があり、私の知らない桜に関するさまざまな事がたくさんあると思う。私も今年、入居しているホームのおやつに「桜餅」をいただいたばかりである。またカラオケ教室を指導して下さる先生は「櫻子」さんというお名前である。先生は11月生れで、名前は櫻子だが11月生れで秋であり、生れた時は桜と縁がないと嘆いておられたので、私が先生秋桜と書いてコスモスと読むので秋にも縁がありますよ、と言ってあげた。
2020-02-05 17:30:00
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新聞に、国分寺村の古い名主の屋敷があると載っていた。現在そこは国分寺市の「おたかの道湧水園」という公園施設になっているのを知り、その名主の屋敷が見たくて行ってみた。
私の住んでいた拝島村(現昭島市)は明治元年に廃止された旧日光街道の宿場町で、八王子の千人同心が日光東照宮の火の番警備を命ぜられてから200年続いた街道の、八王子の次の宿場町であったが、村は上宿・中宿・下宿の3宿に分れていた。上宿は旗本領、中宿は天領、下宿は別の旗本の領地であり、上宿には名主、中宿には代官、下宿には別の名主がいたはずだ。私が幼い頃からあった「稲毛屋」というお菓子屋さん、「中屋」という薬屋さん、根岸屋という呉服屋さんなど、今はみんな無くなってしまったお店の名前などは良く覚えているが、名主さんの名前など良く覚えていないし、代官の名前など聞いた事がなかった。だから私は、旗本たちは多く江戸に住み、名主が旗本の領地の実質的な支配者であったと考え、その名主の大きな屋敷を見てみたかった。
他の人から、元の名主の家は、今はないが、かわりに遠くから移築した家がある、という話を聞いていたので、9月初め頃に介護サービスのかたに車椅子を押してもらって名主の屋敷があるという「おたかの道湧水園」に行ってみた。
おたかの道湧水園長屋門 2018年9月 国分寺市
行ってみると確かに屋敷は大きく、門は立派で倉も名主の倉にふさわしい大きい倉であったが、肝心の名主の家は無く、移築したとされる建物は現代建築のような博物館となっていて、中に昔の名主の遺品をならべてあった。私は正直いって名主の家らしい建物が無かったので大変がっかりした。
おたかの道湧水園の倉 2018年9月 国分寺市
そこでやむなく公園のなかの「おたかの道」と言われる道をまっすぐに東の方へ進んだ。そこから更に緑深い道を進んで行くと道を横切って3本の湧水(わき水)が静かに流れて来た。湧水にふさわしくすき通って手でくんで飲めるような清らかな水だ。国分寺は江戸時代から徳川御三家尾張藩の鷹狩が行われた狩り場となり、崖線の湧水群に小道が整備され、「おたかの道」と呼ばれるようになった。
鷹狩とは飼いならした猛禽類の鷹(オオタカ、ハイタカ)やハヤブサ、ワシ(イヌワシ、クマタカ)などを用いて鳥(鶴・雁・鴨・鷺・雉)や小獣(野兎など)を捕獲する狩猟の一種であり、江戸時代、この「おたかの道」付近で広く行われた。鷹狩は古来より天皇・貴族の野外娯楽として盛んであったが、戦国時代以降は武家で盛んになり受け継がれた。
おたかの道湧水園 2018年9月 国分寺市
ふりかえって見ると昔、外国の学者から透明度世界第二位と評価された多摩川の水も上流の開発が少しずつ進んだ事もあって、次第に透明度が低くなり、江戸の用水路として1653年、4年(承応2年、3年)に作られ、羽村から四谷大木戸まで武蔵野を堀割して多摩川の水を供給した「玉川上水」も1901年(明治34年)廃止された。そして現在は羽村の取入口から地下で村山・山口貯水池に運び、両貯水池から直接都内に供給しているが、東京の発展にともない今は利根川水系のダムの水が中心で多摩川水系の水は20%にすぎないと言われている。
そして羽村の取入口だけが残っている今日、このような清らかな湧水があることは私達にとってとても嬉しい事である。そこからやがてその道は私達が公園に入った道とつづく道へ出て私達はそこからタクシーを呼んで立川で食事を取り午后2時頃老人ホームへ帰った。ほんの近くの小さな旅ではあったが思い出深い旅であった。
なお参考までにつけ加えると、名主のことを関西では庄屋と呼んでいるようだ。
2020-01-14 12:32:17
平成30年8月(2018)、ホームの行事で大相撲の地方巡業の立飛場所を見に行く行事があった。私は相撲が好きでテレビでは毎場所見ていたが、実際に見に行った事が無かったので、いいチャンスだと思ってさっそく申し込んだ。その日が来るのを心待ちにしていたが、とうとうその日が来た。その日は午前10時頃ヘルパーさんが付き添ってホームの車で出発し、10時20分頃目的地の立飛アリーナについた。中に入って見ると、そこには四方に観客席があり、1階には我々障害者でも行けるよう、2台のエレベーターがあった。施設の中央には広い広場があり、そこではコンサート、踊りの会、尺八の演奏会や体操をはじめ各種の屋内スポーツイベントなどを開く事が出来るようになっていた。観客席には恐らく3000人位は収容出来るのではないかと思われる位の席があった。私達の席は2階のいちばん高い所にあったが、最前列で、いちばんよく全体を見渡す事が出来る場所だった。だから私達は、相撲の雰囲気にたっぷり浸る事が出来、とても嬉しかった。
大相撲地方巡業立飛場所 平成30年8月(2018) 立飛アリーナ
相撲場の入口近くにも連れて行って頂き、力士達の姿を身近に見る事が出来た。
大相撲地方巡業立飛場所 平成30年8月(2018) 立飛アリーナ
ただ取組が始まってしばらく経ってから、私はある事に気がついた。私は眼が悪くて、ホームのカラオケ教室などでは後部座席からはスクリーンの文字が良く見えないので、そのような時は常に一番前の座席に座らせて頂いていた。白内障のため矯正視力でも、右0.2、左0.3だった。だから少し遠くから見る今回の相撲見物は、当然双眼鏡のようなものを持って行くべきだったのに、それを忘れていた。従って横綱の土俵入り、三役揃い踏み、力士の取組等はだいたい解ったが、力士の顔までは良く解らなかった。そこで当日持参したカメラの望遠機能で力士達を一生懸命に見た。
大相撲地方巡業立飛場所 平成30年8月(2018) 立飛アリーナ
そのカメラはデジタルカメラで、初め私は不器用なので今までフイルムカメラは使えてもデジタルカメラは使えないと思いこんでいた。ところがこの老人ホームに入る頃に、次女のつれあいが小さいデジタルカメラを自由に使いこなしているのを見て、無性にデジタルカメラが欲しくなった。そこで私は彼に頼んで、なかば強引にそのカメラを無償でゆずってもらった。予想した通りそのデジタルカメラは望遠レンズが無くとも望遠機能もついており、とても使いやすかった。おかげで眼とカメラの両方を使って大相撲の地方巡業の立飛場所をとても楽しく午后3時の終了まで見ることが出来た。その間ホームのスタッフに大変よく面倒を見て頂いた事は心から心から御礼申上げる。
とりわけホーム長さんは、私のそばに時々来て頂き、昼のお弁当も持って来て頂いた。私は3年前の92才の頃からトイレが近くなったので当日も紙パンツを使っていたが、相撲が終るまで時間が長かったので、紙パンツだけでなくズボンまでも汚してしまったが、ケアマネージャーさんがホームの私の部屋までついて来てくださってトイレで汚れたものを全部着替させてくださった。
大相撲を見ていた時、すぐ近くでカメラを操作していた人も見受けられたので、あの大相撲のNHKの中継のテレビ放送もあのようにしてやるのかなあと思った。時間は長かったが久し振りに充実した一日だった。自分で撮った中に1枚くらいいい写真があるのではないかと期待している。立川飛行機と言えば私達にとってとてもなつかしい名前である。戦時中は陸軍の軍事基地になっていて、その一角に立川飛行機があり、飛行機を生産していた。戦争が終ると同時に立川基地は米軍に接収され、飛行機の製造は禁止された。立川飛行機は主に不動産業となり一部の技術者は自動車産業に移ったようである。
2019-12-12 12:26:00
昭島の多摩川の河原で、鯨の骨格のはっきりしている化石を発見したのは、私が昭島市の文化財保護審議会委員をしていた時の同僚の、田島政人さんであった。この鯨は「昭島鯨アキシマクジラ」と名付けられた。この事は当時の新聞の三多摩版で大きく報道され、大勢の見物客が訪れ、市では毎日職員を派遣してこの鯨の化石が盗まれたり破壊されたりしないようにした。
その後、国立(くにたち)音楽大学のA教授と理化学研究所のB研究員の鑑定によってその化石は500万年前のものと鑑定され、いわゆる古東京湾が現在より広かったと言う仮説から、昭島は当時海中にあった事が実証された。
当時五日市でいろいろな貝の化石が発見されていて、古東京湾の仮説、つまり東京湾は現在よりも広かったとの説の信頼性は高まっていたがこの鯨の発見により昭島市も海中にあった事が実証された。
田島政人氏は当時市内の小学校の先生をしておられたが、生物学や考古学にも興味をもっておられ、よく多摩川の岸辺に観察に来られ、たまたま当時6歳の息子さんをつれて多摩川べりに来られた際に発見されたのである。
この発見は昭島市にとっても大きな意味をもつものとなった。当時政府により町村合併が全国的に行われ、東京では都の勧告により昭和町と拝島村が合併して昭和の昭と拝島の島をとって新市が「昭島市」と名付けられた。しかし合併してから日が浅く、昭島の名前は一般にはよく知られていなかったが、このアキシマクジラの発見により昭島市の名前が広く知られるようになったからである。
クジラ祭りの行進 昭和55年8月 (1980)
昭島くじら発見記念碑 昭和62年5月
昭島市はこの発見を記念して公園に記念碑を建てたり、市や商工会が先導して「鯨祭り」が始められた。祭りは昭島駅の道を出て街道とぶつかる所から初められ、大きなプラスティックで作られた鯨を先頭に、市内のいろいろな団体や人々が行進して市の東部にある競技場で市内各町の御輿や太鼓をはじめ歌や踊りなど、色々な催しが終日行われた。拝島の屋台も勿論参加した。拝島の屋台のお囃子は上宿が「十松囃子」、中宿が「神田囃子」、下宿が「目黒囃子」とそれぞれ異る流派の御囃子であった。
今まで昭島市の拝島地区では榊祭が盛大に行われ、特に深夜の榊巡行と翌日の神輿巡行が盛大に行われていて、東京都の文化財にも指定されていたが参加者は原則として村民(町民)に限られていた。また、中神村の熊野神社のお祭りもあったが、この祭りも参加者は同様であって全市を通じてのお祭りとは言い難かった。
鯨祭りが始まって初めて、昭島市全体のお祭りが実現した。私は日吉神社の氏子総代を長く勤めて、それに専念していたので鯨祭りのことはよく知らなかったが、各町内の神輿や太鼓も年を追うごとに整備され、立派な祭に成長したようである。戦後一時、祭りをはじめさまざまな伝統的行事がなくなったが、おちつくにつれて復活した。ただし昭島鯨の出土した時代について、地質学の進歩によって500万年前の化石が300万年前と訂正された。この200万年の差が出た事によって昭島鯨の出土した時代に、昭島が海で、古東京湾の一部であった事に疑問を抱く人もいるようになった。昭島鯨はそのへんの事情もあって鯨祭りは相変らず盛大に行われているが、昔ほど注目されないようになった。
昭島鯨の化石は国立科学博物館の分館で調査、保管後、平成24年から群馬県立自然史博物館に保管されているが、巨大なものなのであまり見る機会がない。
アキシマクジラが報告された2018年の論文
このクジラは群馬県立自然史博物館の学芸員の木村敏之さんらが日本古生物学会誌(Paleontological Research)2018年1月、英文の論文を発表し、エンシス(Eschrichtius akishimaensisエスクリクティウス・アキシマ)の学名で正式にコクジラ属の新種と認定され、科学の進歩により160万年前のものとわかった。
八高線の拝島駅から八王子行きの多摩川を渡る鉄橋のすぐ下の所には、アキシマクジラの発見場所があり、私は文化財保護審議会委員として何回も見物客を案内して説明した。
平成8年11月 (1996)昭島市
たまたま終戦直後、中国大陸から、復員してきた人々が故郷に帰る途中、まだ電化されていなかった八高線に乗った所と同じ鉄橋の上で、列車の最後部分の車輌が脱線して橋下に転落し、大勢の死傷者を出した事があった。見学者の質問もあり、同じ橋下でここの何番目の橋脚の下が鯨の発見された場所で、何番目の橋脚の下が列車が転落した場所だ、などと説明していたが戦後70年もたった現在では、その何番目かもよく覚えていない。
田島政人さんは親切な人で、私が多摩川の水が減少したためかよく解らないが、河原に咲いていた「河原撫子」や「月見草」などがなくなってしまったと言う話をすると、わざわざ月見草の黄色い花を送ってくれた。それについて私は田島さんに御礼の言葉一つ言わなかった事を、いまだに後悔している。
2019-11-06 12:20:00
老人ホームへ入って4年半、ここの生活にもなれて来て安定したくらしを送れるようになると、時々幼い頃の事を思い出す。その一つは春になると田圃に紅紫色に一面に美しく咲いていた蓮華草の花である。なんでもその花が稲のそだつのに肥料になると聞いていた。
その他に野菜作りの肥料として化学肥料の外に人糞が広く使われ、人糞を利用するための溜池が作られた。この池に自分が落ちた事はなかったが、友達が落ちて衣類も身体もどろどろになって、なかなか臭味が抜けなかったという話を何回か聞いた。もし自分が落ちたらどうなっただろうと考えるとぞっとした。
しかしこれは戦前の話で戦後は化学肥料の普及が進んで肥料として人糞を野菜に掛けるような事はなくなった。
今の我々から見ると不衛生のようだが、私達の幼い頃はそんな事は考えなかったので、人糞をかけてすくすく育った野菜を喜んで食べた。もしかすると生物の中でもっとも賢いといわれる人間の糞がそんなに不衛生であるはずがない、と考えたのかも知れない(笑)。
次に幼い頃の思い出として残っているのは、「度胸試し」の事である。あれは小学校3、4年の頃だったろうか、私達は放課後の遊びは餓鬼大将の下で遊んでいた。ある時、餓鬼大将が度胸試しをやると言いだした。私の家の裏は龍津寺の竹林でその竹林の北側に、西の方からお寺へ通ずる一本の道があり、その途中に稲荷神社が祭ってあった。東側からその道を通って稲荷神社まで夜8時頃行ってみろと言うのである。私は言われた通りある夜、稲荷神社まで行ってみた。すると頭の上からかなり大きな竹製のものが落ちて来た。
幸い私の身体には当らなかったが、それは、多分鶏の卵を取るために、鶏小屋で鶏を並べて入れて卵を生むと卵が落ちるようなしかけになっている長方形の入れ物で、俗に「パタリ」と呼んでいた。夜でまっくらだったので、上に人がいて誰かが落したのか或は自然に落ちて来たのかよくわからなかった。
然し稲荷様のある場所は私の家のすぐ近くで、よく行く場所だったので、別に怖いような気はしなかった。そのまま元の場所へもどったが、餓鬼大将は別に何とも言わなかった。しかし何故かその事は、はっきりと心の中に残っている。幼い頃の事は大部分が忘れてしまっているのに、その事だけをはっきり覚えているのはどうしてか、いまだにその理由がわからない。「バタリ」の話は勿論これは卵を生む雌(牝)に関係した話であり雄(牡)は首をひねられて殺されて鶏肉にされて人間に食べられてしまった。私は飼われている雄が、首をひねられて鶏肉にされる場面をよく見掛けた。その時は何とも思わなかったが、今考えて見ると可愛いそうな場面であった。その時は首を取られた鶏の首のあたりから血がだらだらと流れた。
平成元年(1989)年6月 拝島町
最後に思い出したのは、しじみ(蜆)のことである。前にも書いたが、多摩川には上流から下流に向って、左岸の拝島村(昭島市)右岸の高月村(八王子市)の所に、多摩川と支流秋川との合流点にあたるために、ここに七ヶ村堰と言う大きな堰が作られていた。そこから水を引き拝島村・田中村・大神村・宮沢村・中神村・築地村・立川村(現昭島市・立川市)の七村の田圃に水を引くための堰であった。その後、立川村は地域が発展して田圃が無くなってしまったので脱退したが、堰から引いた用水路は現在でも立川堀と呼ばれている。その用水路を通って私の家から多摩川へ行く道にはコンクリートの橋が掛っていた。その橋を渡ってまっすぐに行くと200メートルばかりで多摩川堤防で、橋から右に曲ると、すぐ学校法人啓明学園の構内であった。その立川堀で私達はよく釣をしたが、ある時、橋から上流の川の中をのぞくと、何と驚いた事に蜆(しじみ)の大群が川一杯に発生したのがみつかった。しじみ汁が身体に良いなどと言う事は漢方の知識で父母が話しているのを聞いていたので、幼い私も、しじみが身体に良いなどと言う事は知っていた。
しじみは小さな貝なので私は川へ入って家に持帰ろうとも思ったが、子供の事だからそんなにたくさん持帰っても仕方がないとも思い、子供の私には立川堀で釣れた鮒(ふな)や鮠(はや・うぐい)の方が大切に思われたので、しじみはそのままにして家へ帰った。
昭和59年(1984)3月 羽村市 羽村堰下多摩川
2019-09-25 12:13:00