榎本良三
江戸時代に柴崎村と言う立川が比較的大きな農村であった事は知っていたが、それ以外の事はあまり良く知らない。私の郷土昭島市拝島との関連で立川の事と比較的良く知るようになったのは明治維新以後の事である。自分が拝島郵便局長をしていた郵便局の歴史から言えば拝島郵便局が明治8年5月に開局したのは八王子、調布、府中、青梅、五日市についで6番目の事であった。日野郵便局も同じ頃に開局された。これに対して立川局は開局されたのがずっと遅くたしか明治35年(1902年)頃と記憶している。立川局の開局が遅かった理由は、前記の局がいずれも江戸時代交通の中心であった甲州街道、日光街道、青梅街道、五日市街道等の宿場町として盛えた町であったからであるが立川はそうではなかったからである。宿場町の中でも八王子は多摩の中では中心で長い間最大の街であった。立川は明治30年迄は拝島郵便局で郵便を配達していた。
拝島局に在籍していた古い配達員の小林梅吉氏の話によると相武鉄道(中央線)が立川駅迄開通した明治22年以降でも立川駅北口では現在立川富士見郵便局の近くにある富士塚から立川駅迄は一面の原っぱで駅前には五、六軒の家しかなく郵便物の配達物数は五、六通であったと言う。
然し明治23年の相武鉄道(中央線)の開通、明治26年の青梅鉄道の開通にともなって交通の中心は駕篭や荷車馬や徒歩などから鉄道、バス、トラック等に移り変わってそれに伴って宿場町として栄えた町から鉄道沿線の街へと中心が移り始めた。
中でも甲州街道の宿場町であると同時に織物業が盛んであった八王子はその盛衰が街の盛衰を大きく左右した。元禄の頃から江戸は世界一(当時)の大都市としての繁栄の象徴として着物文化が隆盛を極め(註)越後屋、大丸、白木屋等の大呉服店が繁盛したが八王子はその織物の供給地としてクローズアップされた。元来八王子の市街は八王子城の城下を移転したものであったが、それに宿場町としての繁栄が加わり多くの市がたち、その大部分は常棚と呼ばれる常設店舗に吸収されたが最後に縞市だけが残った。縞市とはタテ縞やヨコ縞の織物を売買する市と言う意味で、元禄以降広く八王子近隣の生糸絹織物を集めて江戸の大呉服店の一大供給地となり、江戸文化をささえると同時に多摩地区最大の都市となった。
この様な八王子の繁栄を徐々に変えていったのが着物の文化から洋装への服装の変化である。大正10年カローザスがナイロンを発見。同じ頃京都大学の櫻田一郎博士による構造の異なるナイロンの発見によって天然繊維と共に人造繊維が盛んになり庶民の服装は徐々に着物から洋服へと変わった。その決定的な契機となったのが昭和6年の有名な白木屋事件である。昭和6年暮れ白木屋デパート三階の玩具売場から出火し七階まで燃えひろがる大火となった。
その際店員を救出する為縄梯子を掛けたとも、下に大きなテント地を広げて店員に飛び降りる様うながしたとも言われるが、当時店員は着物に袴の制服を着用することを義務付けられていて、ズロースをはいていなかったので飛び降りる時裾の乱れるのを気にして一瞬躊躇した結果、若い娘盛りの店員に多数の死傷者を出したのが有名な白木屋の火事である。
その当時私はまだ幼く、後に色々な本を読んでみたが内容はまちまちでどれが本当かよく判らない。しかしこの事件が社会に大きな衝撃を与え白木屋の店長は店員の制服を洋服に変え、以降一般社会でも産業の発展もあって女性の服装は洋服が一般的となりデパートは洋服売場が中心となった。
戦後しばらくは“ガチャマン”と言われ織物機械をがちゃんとやれば一万円もうかると言う時期もあったが戦後は着物を中心とする八王子の織物業は衰退し八王子はネクタイの産地、大学が多くある学園都市となり甲州街道沿いの商店街は少しづつ衰退しデパートも次々に撤退した。然し江戸文化の中心であった着物文化をささえた、八王子の貢献は高く評価しなければならない。
一方それに替って多摩の中心として発展してきたのが立川市である。立川市は元来多摩の地理的中心ではあったが鉄道、バス、トラック等が交通の中心となるにつれてその比重を増した。立川飛行場が作られたのは大正11年の事であったが昭和6年から昭和20年8月15日迄の戦争の時代には軍事基地としての比重を増し、飛行場の北に立川飛行機㈱が飛行場の南側に航空研究所と陸軍航空工廠(名古屋より移転しあらゆる航空部品を製造)、少し離れた昭和町(現在の昭島市)には三井系の昭和飛行機株式会社が作られ、ダグラスDC3型輸送機を作っていた。
航空研究所の長距離機は戦時中周回飛行で無着陸世界記録を作り、当時同盟国であったドイツへの無着陸飛行を試みたがシンガポール付近で消息がわからなくなった。他に昭島の西、福生町には陸軍航空審査部、陸軍少年飛行兵学校他一つ計三つの飛行場があった。この様に立川は戦時中航空産業の盛んな重要基地となった。戦後連合軍司令部により飛行機の製造を禁止された航空技術者達は、自動車製造の技術者へと転身し会社を設立。日産プリンスとなり日産自動車の主力車種の一つとして活躍した事は皆様御承知の通りである。
又福生市にあった現在の横田基地がなぜ横田と呼ばれたかについて言えば米軍にとってフッサと言う日本語は発音が呼びにくかったので基地の一部になっていた武蔵村山市横田の名前で呼ばれるようになったと思われる。横田基地は現在でも日本の首都東京を守る重要な軍事基地として存在している。
この基地の成立について一言しなければならない事は例の砂川闘争の事である。
当時米軍は立川基地を拡張してここを現在の横田基地の様にしようとし、立川基地を北側立川市砂川町の方向に拡張しようとした。しかし五日市街道沿いには吉宗の武蔵野台地開拓の方針のもとに、大岡越前守を中心として具体化し長い苦労と努力の結果成立した村々の一つである砂川村(立川市砂川町)があった。長い伝統を持つ町民らがこの拡張に反対し砂川闘争が始まった。たまたま東京に近い事から軍事基地反対闘争を全国的に行っていた学生文化人らがこれに合流し大きな闘争に発展した。
これについては色々な本が出版されておりここでは詳細は省略するが結局米軍は立川基地の拡張を断念し、現在の横田基地に集約される事になった。この闘争に関して私がひとこと言いたいのは、この闘争の最高指導者は誰かという事である。私の知る限り私の親しい友人である故砂川郵便局長志茂威氏であると確信している。彼は当時郵便局長で公務員であったため、闘争の為の行動の際は変装して闘争を指導し又裏面で首相周辺と頻繁に接触して解決に努力した。この事は一般には知られていないが、私の知る限り彼が砂川闘争の最高指導者であった事は間違いない。彼の行動は純粋な郷土愛から出たもので党派性はなかった。
かくして横田基地以外の立川基地、昭和基地については最終的に米軍より返還されたが、そのうち昭和基地については昭和飛行機㈱と言う民間会社の所有地であるからその土地は不動産業としていろいろな施設が建設され一部は公団住宅用地として分譲された。
立川の春 こぶしの花
一方立川基地は陸軍飛行場と言う国有地であったから広大な土地は八王子地方裁判所を初め国の機関が次々を移転し 最近では立川市役所等も移転することとなった。そして敷地の中心部には波乱の生涯を送った昭和天皇を記念する昭和記念公園が造られた。建設の始まったのは 昭和56年頃であったが昭和58年に開園した。都内でも有数な規模の公園として整備され春はポピーやチューリップ、秋はコスモスを始め園内の自然が見事で ある。最近は日本庭園も完成した。
昭和記念公園の春
かくして立川は人口は八王子より少ないが、交通の要衝であると共にすぐれた公園を持つ街となった。東京のベッドタウンの発展につれ立川はその中心となり駅前にはデパートが林立し中央沿線で乗降客は新宿駅につぐ第二位と言われるまでに成長した。
なお江戸の着物文化の供給地として大きな役割を演じた八王子が加賀友禅や大島つむぎの様な独自の着物を残せなかった事は残念だがそれは八王子が江戸にあまり近すぎた為だろう。
最後に立川駅前に立っている歌人若山牧水の歌を紹介して立川の歴史をしのびたい。
立川の驛の古茶屋さくら樹の
もみぢのかげに見送りし子よ
付記1
越後屋呉服店とは後の三越デパートの事である。三越とは越後屋の創業者三井高利の三と越後屋の越をとって三越と名付けたものである。三井高利は江戸時代の中期現金後払いが普通であった時代に掛値なしの現金払いの販売を始めて行った人として広く知られている。
付記2
終戦直後、軍部はアメリカ軍が占領の為上陸すると女性は暴行されるから女は山へ逃げろなどと言っていたが実際上陸してみるとアメリカ占領軍の軍規は厳正でありその様なことはなかった。逆に戦後の混乱期に職もなく貧しい女性達が米軍兵士の周囲に集まった。中には米軍兵士にこびを売る女性も多かった。立川は米軍の重要な基地であったから立川周辺には米兵の数も多かったのでそんな女性も目立って多かった。戦後の混乱がおさまった後、松本清張ら幾人から小説家がこんな女性の中、後に有名人の夫人や著名になった女性を題材にして彼女らが立川時代の経歴をかくそうとして犯罪を犯すという探偵小説を書いたので一時期立川は基地の街として有名になった。
2015-11-19 14:29:00
榎本良三のエッセイ