国分寺を訪ねたのは昭和59年(1984年)11月23日と12月8日の2回だけである。それも記録を見ると2回行った事になっているが記憶の中では1回だった様な気がする。それにもかかわらず記憶の中に鮮明に残っているのは、古代の史跡のほとんどが幕然とした神話伝説の内に包まれているのに反し武蔵国分寺跡だけは、寺の礎石がはっきりと残っているからである。
私は国分寺駅の北口へは行った事が無く、聞くところによると駅前に商店街があったが今は道路を広げる為の再開発で、駅前は商店が取毀されて広場になっていると言う。その北は住宅街であり、それから真直に北へ行くと玉川上水の近くで小平市と境を接しているが、玉川上水の大部分は小平市に属しているそうだ。
国分寺駅の南口を降りるとすぐ目の前に都立殿ヶ谷戸公園の入口があるが、これは三菱財閥の岩崎彦彌太氏から東京都が買収して都立公園としたもので、規模は大きくないが竹林と紅葉が美しく四季の草花も咲いており、一周すると最後に茶屋の様な休憩所があってここで茶を振舞ってくれる。丁度子供連れ、家族連れで半日遊ぶのに適当な、よく整った公園であった。その入口でちょっとしたハプニングが起った。入口には60才以上入場無料の貼紙がしてあった。私は当時61才だと記憶していたが入口の受付で年令を告げて入ろうとすると呼び止められ証明書の提示を求められた。しかし身分証明書も保険証も、車に乗らないので運転免許証も持っていなかった。そこで色々と説明したが結局押問答になり入場料金を投げつける様にして入場した覚えがある。今考えてみると随分乱暴な態度であったと反省している。
中に入って公園を散策してみると、竹林のそばを歩いていた30代位に見えるカップルの姿が美しく見えたので「写真を撮ってもいいですか」と声をかけたら「いいよ」と言ってくれたのが喧嘩の後だったので嬉しかったのを覚えている。その時紅葉も丁度見頃で、とても美しかった。
その公園を後にして南へ向って少し坂道になっている道を歩いて行くと、弁天様がありそこから清水が沸き出ていて市民がその清潔な清水をもらいに来るという。その下流が小さな流れになって子供達が川遊びをしていた。その川のわきを通って殿ヶ谷戸公園から25分位歩くと、その先が国の史跡に指定されている市立国分寺史跡公園であった。
何でも史跡公園から100m程離れた畑の中に国分寺と言う寺は現在もあり、その寺には本堂と薬師堂がある。しかし天平に建てられた武蔵国分寺は新田義貞の鎌倉攻めの際兵火により焼失したといわれ、現在の国分寺の本堂はそれを聞いた義貞が建てたと伝えられており、また薬師堂は江戸時代に建てられたと伝えられている。本堂、薬師堂ともに本尊が違い、本来の国分寺とは直接の関係はないという話であったので私はそこには行かず直接国分寺史跡に赴いた。
史跡に行って見ると広い敷地の中に寺の柱の下の石と思われる石の塊の様なものが点々と並んでいるのが見えた。私は聖武天皇の勅命により天平13年(741年)五穀豊穣国家鎮護の願いをこめて国分尼寺とともに全国に建てられた武蔵国の国分寺の礎石を真のあたりに見て、大きな感動を覚えると同時にいろいろな連想が心に浮んだ。私は一時間以上史跡の前に立っていろいろな連想に耽っていた。
最先に心に浮んだのは稱徳天皇の勅命により天平勝宝4年(752)行われた奈良東大寺の大仏開眼供養の事だった。この行事は稱徳天皇の父、聖武天皇の健康が優れないため東大寺の全体の完成を待たずに行われ、当日は稱徳天皇、上皇になっていた聖武天皇、光明皇后がそろって行幸され東大寺の本尊盧舎那(るしゃな)仏開眼の際には白い布で被れた顔面から細い布でつないだ布を持たれてみずから開眼されたと伝えられている。又この供養会には中国をはじめ遠くインドも含め一万人もの僧侶が参加し、当時の歌や踊りなどいわゆる歌舞音曲も盛大に行われまさに古代史上最大のイベントであった。そしてその行事に使用された品は聖武天皇の使用された遺品・東大寺の寺宝などとともに9000点が正倉院に納められ7・8世紀の東洋文化の精粋と言われている。
その後の日本史を見ても「大仏の開眼供養会」に比敵するイベントは見当らない。例えば豊臣秀吉によって醍醐三宝院で多くの大名や女性達を集めて盛大に行われた「醍醐の花見」、不平等な和親条約改正の願いをこめて明治15年に建てられた鹿鳴館で日本の西洋化をアピールしようとした夜会や舞踏会、昭和37年(1963)に行われた「東京オリンピック」など、いずれを取って見ても文化史・美術史・建築史などから見ると天平の供養会に及ばない。
そんな事を考えながら国分寺史跡の前に長い間立っていた。
国分寺史跡公園七重塔跡
その後で史跡につながる国分尼寺跡や七重塔跡を廻ったがここで又一つの事を考えていた。それはこれだけの史跡があるのだからせめて七重塔くらいは市
で復元してもらえないだろうかという事だ。
聞く所によれば武蔵国分寺の原形を示す図面や絵画の様なものは何一つ残っていないという話だが、復元の為のお手本としては奈良薬師寺の三重塔(東塔)がある。国分寺の出来た時代より少し古いが、あの有名な塔を参考にしてせめて七重塔だけでも復元出来ないだろうか。奈良平城宮跡でも朱雀門と大極殿が復元されている。又、薬師寺の三重塔は見方によっては何重にも見えるという話を聞いている。そんなさまざまな思いを抱いて私は武蔵国分寺史跡公園を後にして国分寺駅から中央線に乗り、立川からバスで家に帰った。
2016-05-20 16:23:00
榎本良三のエッセイ