多摩になじみの深い小説家としては、吉川英治と中里介山が良く知られている。その代表作として「宮本武蔵」と「大菩薩峠」が有名であり、それぞれのヒーロー宮本武蔵と机竜之助の名も広く知られている。吉川英治、中里介山は二人とも尋常高等小学校卒業や中退と言う学歴しか無いにもかかわらず、優れた才能を発揮して後世に残るような立派な小説を書いた。
特に中里介山は、私の妻の実家のある羽村市の出身で、約75年前、妻が小学生の頃に介山が母校の羽村小学校の校門を入る所を見たことがあり、介山は背の高い太った人で大きな犬を連れていたという。親どうしが親しかったためわたしは子どもの頃からよく羽村へ出掛けていったので、介山や大菩薩峠の登場人物には妻と同様に思い入れがある。妻は介山がその大河小説の中で実在の人物をモデルにしたりしているので、青梅から福生駅までのバスの車掌さんで大菩薩峠の主人公と同じ「机」という姓のひとを小説の主人公机竜之助と関係があるのではないかと想像していたという。
小説「大菩薩峠」の中に登場する有名な義賊が「裏宿七兵衛」である。妻が昭和14年から昭和18年まで通学した旧制府立第九高女は青梅駅から歩いて30分位だが、途中道の左側に人の胸くらいの高さの裏宿七兵衛の碑があり、そこを通りすぎると秩父の山で捕ったウサギやイノシシの皮を剥いで干していた場所に出て、そこの前をすぎると女学校に着いたという。この碑のある場所は現在「裏宿七兵衛公園」として整備されているという。
平成17年5月 青梅市
偉人や英雄の名を冠した公園はあるが義賊とはいえ盗賊の名前を冠した公園は珍しく興味がある。
七兵衛は一夜に「百里行って百里還る」と言われ足の速いのとスタミナから以前からスポーツ選手の信仰が厚く、75年前の当時からボクシングの有名選手がお参りに来たという。一方私は昭和50年頃「青梅七福神めぐり」をした時に、2番目の寺「毘沙門天」をまつる宗建寺を訪れ、この寺には裏宿七兵衛の墓もあるというので行って見ると、古くからある墓を最近造り直されたとの事で立派な墓が出来ており、当時の横綱北の潮が最近お参りに来たという話を聞いた。
また、羽村市の禅林寺の裏には中里介山の立派なお墓があった。私はその墓にお参りし少し離れた場所にあった中里介山記念館に立寄り資料を見せてもらった時、同時にその記念館を管理していた介山の弟さんにお目にかかり、写真を写したりした。この写真は介山の写真ではなく弟さんの写真であったから結局たいして評価もされなかったが、私の写真家としての一つの思い出として残っている。 噂によると記念館はその後解体され、資料は羽村市郷土博物館に移されたという。
私が聞いた所では当初裏宿七兵衛は架空の人物と目されていたがその後武蔵村山市の「谷合日記」という日記の中で裏宿七兵衛という盗賊が捕縛されたという記述があり、実在の人物と見られるようになった。
昭和63年 日の出村
七兵衛の碑は江戸時代からあるが、誰が建てたかよく解らないという。又宗建寺で聞いた話では、暴風雨で水が溢れた時、刑場にさらされていた七兵衛の首が当時青梅宿の門があった青梅市住江町附近の門のそばに流れついていたので、それに気づいた宗建寺の和尚が哀れに思い首を寺に持帰って寺に埋めて墓を作ったという。但し宗建寺でもそうしたのが何代目の和尚かは解らないという少しあいまいな話であった。「谷合日記」が発見された武蔵村山市の人の話では村山宿の裏に住んでいたので裏宿と言う名前がついているが、実際は家にほとんどいないで江戸を初め多摩地区を駆け巡って盗賊を働いていたのではないかという話であった。
要約すると裏宿七兵衛は村山宿(武蔵村山市)の裏に住み毎夜に方々に出掛けて盗賊を働いていたが、かなり長くたってから青梅市で捕縛され処刑され、さらされた首が暴風雨の際青梅宿の入口の門の横に流されていたのを近くの宗建寺の和尚が自分の寺に埋めて墓を作ったという話になる。
平成6年 青梅市(旧澤井村)
青梅に刑場があったと言う話は聞いた事はないが昔の刑場は竹矢来を組んで処刑する罪人を縛りつける棒を立てれば簡単に出来るので一概に否定出来ない。
七兵衛の碑が現在の「裏宿七兵衛公園」と言う場所にあるのは恐らく義賊(金持から金品を盗んで貧民に分け与える義侠的な盗賊)であった為庶民に人気があり信仰の対照となった為と思われる。現在の所それ以上の事は解らない。
小説「大菩薩峠」は沢井村(青梅市)に道場を開いていた甲源一刀流の達人、机竜之助が大菩薩峠の頂上附近で休んでいた老巡礼を理由もなく切殺し更に一年後4年に1回行われ関東諸国の武芸者が集る武州御嶽(みたけ)神社の奉納試合で同じく甲源一刀流の道場を開いていた宇津木文之丞の頭を一撃して打砕いて殺してその場を立去り、妻お浜と共に江戸へ出て、さらに甲州や長野や京などを巡って色々な事件に巡り合う物語である。この小説の中で裏宿七兵衛は大菩薩峠で机竜之助に打殺された老巡礼と一緒にいた孫娘のお松を助け知人に預けるが、その後いろいろないきさつがあって、お松が京都の島原遊廓に女郎として売られてしまったのを助け出すため三百両もの大金を工面するため甲州の馬大尽と呼ばれる沢山の馬を持っていた大尽や江戸の豪商などから奪って金を工面し島原の遊廓に駆け付けるが既にお松は身請けされた後だったので、あらためて身請した大尽と交渉してお松を助けだしたり、机竜之助を兄の敵と付け狙う宇津木文之丞の弟兵馬を助けたり、幕末の江戸の騒動の際には貧民に米を与えたり、それらの騒動が終ってから得意の盗賊としての観察から、そのたびたびの騒動の源が薩摩藩の江戸屋敷に有ることを突きとめたりするなど色々な場面で大活躍するがこれは著者中里介山が青梅街道の終点である青梅宿の歴史をくわしく調べ義賊として民衆に親しまれた裏宿七兵衛の事を良く知っていたからであろう。
参考
小説の中で七兵衛が活躍する場面で江戸の幕末のたびたびの騒動とその源が薩摩藩の江戸屋敷にあることを突きとめた云々とあるがそれは井伊大老の決断により横浜等開港が実現し貿易が盛んになったが、為替レートで交換すると日本の通貨の方が銀の含有量が多かったので交換すれば外国がもうかるので外国はこぞって通貨を交換しそのためどんどん日本の基準通貨の金銀が外国に流出し国内の金銀の流通量が少くなくなったのでその分物価が上り米価等も高くなった。それに対して江戸では抗議のためしばしば暴動が起き米屋や富豪等が襲撃されたがそれを煽動したのが倒幕をねらう薩摩藩江戸屋敷だと言われていた。真相は明かでない。
2016-06-20 16:32:00
榎本良三のエッセイ