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オリンピックの思い出

オリンピックの思い出

 昭和12年頃、旧制中学一年生の私は暑い夏の日の少し涼しくなった夜、拝島第一小学校庭で映画を見ていた。校庭に白い大きな天幕を張ってそこに映写機から画像を投影させると言う方法で観客は皆立って見ていた。その映画の名はベルリンオリンピックの記録映画「民族の祭典」。私はその映画に写し出された映像の中、陸上競技「棒高跳び」の映像を特に興味深く見た。当時棒高跳びは現在の様にグラスファイバーではなく竹のポールを使っていた。竹のポールは現在のグラスファイバーより高さは出ないが飛躍する姿は美しかった様に記憶している。ベルリンオリンピックでは日本の西田周平、大江季雄とアメリカのメドウスが5メートル27を越え、バーの高さを5センチ上げて5メートル32とし最後にメドウス選手だけが5メートル32を越えて優勝し日本の西田周平と大江季雄選手が2位、3位となった。この長い時間の素晴らしい熱戦を見て私は深い感銘を受けスポーツの持つ純粋性、力強さ、国際競技で日の丸をつけて戦う事に民族の誇りのようなものを感じてそれからスポーツのファンになりそれは今日迄続いている。
 初めは自分で一番長くやった経験のある野球が一番面白かったが、最近では陸上、水泳、マラソンや団体競技ではバレーボールやサッカーなどにも面白さを感じている。やるスポーツの方は旧制中学時代校内野球のメンバーであったりした。運動会のクラス対抗リレーではメンバーに選ばれたが1回も練習しないで他の3人が自分でリレーの順番を決めてしまい、結局気弱な私がアンカーになってリードしていたのに他のクラスのアンカーに最後に抜かれてしまい、又水泳ではクラス対抗の選手に選ばれたが練習中気分が悪くなってやめたり、サッカーでは同じ五日市線で通学していた同級生にサッカー部への加入を熱心に勧められたが結局引っ込み思案の為加入せず、戦後はもっぱら見るスポーツのファンになった。
 前述の映画「民族の祭典」の監督はリーヘンシュタールさんで一時はヒトラーの愛人などと騒がれ戦後はその映画を通じてナチス・ドイツへの協力を世界中から厳しく批難されたが、裁判にかけられたり処刑される事も無く何とか生きのびた様に思う。私はこれとは対照的な例を知っている。
昭和17年戦争が激しくなった頃、私は、フランス語が好きでアテネフランセに通っていた親友らと一緒に、物が無くなっていた銀座へ出て、アイスクリームを食べ、銀座全線座でフランス映画を見た。映画の題名は「格子なき牢獄」。すでに日本では戦争協力映画しか作れない時代だったがこの映画は普通の映画で主演のコリンヌ・シェールと言う女優の演技と美しさが強く印象に残った。ところが戦後対独協力者としてフランスの法廷で死刑を宣告され処刑された。「コリンヌは美しくなかった」と言うコリンヌに批判的な立場で誰かが書いた新聞の評論の一節を読んで悲しく思ったのを記憶している。
たしかに「民族の祭典」も多少ヒトラーの顔が出て来たりナチス・ドイツに協力的な所もあるが、全体として見ればオリンピックの記録映画の最高傑作であることは間違いない。オリンピックの記録映画はたくさん作られているが、「東京オリンピック」を含め他のオリンピックの記録映画は一口に言えば芸術的すぎるのであり、記録映画としては「民族の祭典」に及ばなかった。東京オリンピックの記録映画の監督は「青い山脈」や「ここに泉あり」などの作品で知られた今井正監督に内定していたが、彼が左翼政党の支持者であったところから組織委員会内部から異論が出て市川昆監督に変わったが、結局オリンピック史上に残る様な作品は出来なかった。日本人はすべて物事をひとからげに考えがちなのが大きな欠点である。
 話をもとに戻せば、その後大江選手は先の大戦で召集されフィリピンで壮烈な戦死をとげ、西田選手は戦後「棒高跳びを強くする会」を作って後輩の育成に努力したが、最近までかつての栄光を復活することが出来なかった。今回世界選手権で新人の山本選手が3回目に5メートル75の自己最高をマークして6位に入賞したことは大変喜ばしい。次のリオデジャネイロのオリンピックでは勝負強い山本選手が西田、大江両選手の栄光を継いでくれる事を期待したい。前回の1964年(昭和39年)の東京オリンピックに関して、私はテレビ観戦のスポーツファンの一人に過ぎなかったが、開会式は素晴らしかったが競技そのものは日本選手の不振の為に盛り上がらなかった、という感想を持った。16個の金メダルを獲得したのは事実だが、ベルリン大会であれほど活躍した陸上では、唯一マラソンの円谷選手が銅メダルを獲得したくらいで、かつてオリンピックで織田、南部、田島、と三連覇を達成した三段跳びや棒高跳び、走り巾跳びなどで全くふるわず女子陸上100メートルハードルで期待された依田育子選手も決勝で5位に終わった。又柔道でも最も重要な重量級で神永選手がヘーシング選手に敗れ、日本の得意とする水泳でもメダルを獲得したのは800メートルリレー1種目であった。金メダルを獲得したの体操6、レスリング4、柔道3、ボクシング1、重量挙げ1、女子バレー1の16個であったがベルリン大会を見た私には物足りなかった。勿論十代の少年期に見たベルリン大会と四十代で見た東京大会では26年の開きがある。その間時代は大きく変化し第二次世界大戦をはさんで欧米の植民地であった所のほとんどが独立国となりオリンピック大会の規模も戦前と比較出来ない程拡大し競技のレベルも比較出来ない程向上したが、少年時代のベルリン大会の映像が強く印象付けられた私には物足りなかった。最も最後に新しく加わった種目の女子バレーで大松監督、河西主将始め選手達の奮闘で決勝で強敵ロシアを破り金メダルを獲得選手達が「東洋の魔女」と呼ばれた事はマラソンで銅メダルを獲得した円谷選手の入賞と共にとても喜しかった。
 それに較べると施設や環境整備の面では国立競技場が出来たり、代々木体育館が出来たり、日本武道館が出来たり、東海道新幹線が開通し折からの高度成長の波に乗って東京の近代化は大いに進んだ。
 2020の2回目の東京オリンピックは、前回の1964年から数えて50年以上後に行われる。オリンピック誘致に成功した直後の現在は前回の東京オリンピックは大成功だった、の大合唱だがベルリンオリンピック映像を見た私には内容的には1964年の東京オリンピックは必ずしも大成功であるとは思えなかった。2020年の2度目の東京オリンピックはスポーツファンとして成功を祈る一人である。それには施設が完備し運営が充実していることが必要だが、それと同時に主催国である日本の選手達が、金メダルの数は必ずしも多い必要はないが、日本の得意種目で活躍することが必要であり、その両方が達成されて始めて自国開催のオリンピックが本当に盛り上がるだろう。
それには日本人の体力に合った科学的なトレーニングも必要であるしベルリンで陸上の三段跳びで優勝した田島直人や男女200メートル平泳で優勝した葉室鉄夫、前畑秀子、マラソンで優勝した孫基偵(当時日本)、戦後では高橋尚子や北島康介のような英雄や日紡貝塚のバレーチームを育てた大松監督や高橋尚子を育てた小出監督、北島康介を育てた平井コーチの様な優れた指導者の出現を期待したい。
 オリンピックは世界一を競う大会であり弱小国、小民族はオリンピックで勝つ事によって民族の誇りを高揚させる様な面がある。私は陸上の短距離王国ジャマイカがまだスポーツの弱小国であった頃、初めて1600メートルリレー(マイルリレー)で強敵アメリカを打破った時のメンバーを何故か自分でも知らないが今でもハッキリ覚えている。それはウィント、レミング、マッケンレー、ローデンと言うメンバーだった。ジャマイカの最終走者ローデンがアメリカの最終走者ホイットフィルドに4、5メートルのリードを保ったままゴールするシーンをはっきり覚えている。
 ベルリン大会当時なかったサッカーの男女、卓球、野球男女(追記)等の団体競技にも健闘を期待することは言うまでもない。
施設の面では心配していない。おおくの外国人に日本を見てもらうよい機会であろう。
 東京は素晴らしく機能的で世界一安全で便利な町だが個性的な町とは言えない。開発計画などもばらばらに建てられている様な気がする。私は東京は個性的な美しさと言う点に於て江戸時代の城下町、宿場町、武家屋敷等と比較して劣っている部分もある様な気がする。それは明治維新の動乱、関東大震災、太平洋戦争中の東京大空襲等によって東京の町が徹底的に破壊された為であると思う。

キック 昭和記念公園 平成4年11月 (1992年)
キック 昭和記念公園 平成4年11月 (1992年)

 

 現在東京都には建物では国宝は鎌倉時代の面影を残す東村山市の正福寺地蔵堂ただ一つであることがこれを示している。私は娘に教えられて樋口一葉の旧居があった菊坂あたりを歩いた時、以前行った六義園や後楽園にはない古い東京のにおいを感じた。私の考えではオリンピックの機会に可能な限り部分的に江戸時代以来の町並を復活してほしいと願っている。

追記
オリンピックの場合主催国で盛んな競技が行われるのが通例であるから日本で盛んな野球は現在実施種目から除外されているが恐らく「野球、ソフトボール」一種目として復活するものと思う。

2016-07-21 16:54:00

榎本良三のエッセイ