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大江戸の繁栄を支えた  玉川上水

大江戸の繁栄を支えた  玉川上水

 私達夫婦が長女を授った時、妻はつわりがかなりつよかったので相談の結果、羽村市南側の奥多摩街道沿いで玉川上水のすぐ上にある妻の実家で出産することになった。当時(昭和23年)私の家のある拝島と妻の実家のある羽村の間にはバスもなくタクシーも無く、鉄道に頼るしかなかったので、日曜日に妻と二人で30分近い道を拝島駅まで歩き、それから青梅線で羽村駅まで電車に乗って駅を降りてからまた15分位歩いて実家に着いた。当時妻はお腹があまり大きくなかったので、近所の婆さん達からあんなにお腹が小さくては正常のお産は出来ないだろうとさんざん悪口を言われていた。
 しかし当時多摩川の水量は今よりはるかに多く、羽村の玉川上水取入口の堰の下には遡上しようとする鮎がたくさん集っており、その鮎を妻の弟が毎日釣に行っていて、時には一日30尾以上も釣って来たことがあった。その鮎を妻が毎日食べているうちにだんだん栄養も良くなりお腹も大きくなり婆さん達の悪口に反してお産は順調でよく育った赤ちゃんが生れた。
 堰の取入口から流れる玉川上水と多摩川の間は堤防になっており、そこには玉川兄弟の銅像が建っている。玉川兄弟が作った玉川上水は、承応2、3年(1653-1654)に作られた羽村から四谷大木戸までの江戸の上水路である。
 この上水路の完成は江戸の慢性的な水不足を解消し、江戸を人口100万の世界一の大都会(当時)に導いた。玉川兄弟は幕府より玉川の姓を賜り、玉川上水の維持管理を任される事になった。
 玉川兄弟の出身地については玉川上水の基本的文献である「上水記」に「芝口の町人」と書かれているだけであり、また「上水記」自体が上水完成後100年以上後に書かれている関係もあって、その後いろいろな説が出ているが確実なところは現在でも明かでない。銅像のある堤防には桜の樹がたくさん植えられており、羽村の春の祭りには露店がたくさんでて桜の名所として花見客でにぎわう。

玉川上水の源、羽村の堰の桜 1990年
玉川上水の源、羽村の堰の桜 1990年

 

 上水は堤防の内側を流れており、羽村と四谷大木戸の間43キロを武蔵野を貫いて流れている。四谷大木戸からは水道橋の駅名でも知られている通り橋の上を木の水道管を通し、さらに地下も木の水道管で江戸市中を細かく流し、末端の一つは色々な江戸の物語に出て来る長屋の共同井戸である。
 天正18年(1590)豊臣秀吉の小田原城攻略戦によって小田原北條氏が滅び、かわって国替により徳川家康が江戸城に入城した。江戸城は、室町中期の武将にして歌人の太田道灌によって築かれたといわれ埋立地の上にあり、江戸市中も埋立地が多く、埋立地では井戸を掘っても水に海水が混入して飲めないので、家康は江戸の都市としての整備のため江戸入城と同じ年の天正18年(1590)頃から井の頭(武蔵野市)の涌水を水源とする神田用水を導入していた。
 慶長8年(1603)関が原の合戦に勝利した徳川家康が幕府を江戸に開いてから江戸は事実上の首都となり、参勤交替制度の確立や水運の発達により全国の政治経済の中心となった。そして大名屋敷・武家屋敷・あらゆる商人の家・長屋なども多く建てられる様になったが、人口の増加から神田用水では水不足を賄えなくなった。そこで幕府は五千両で新たな用水の開拓者を募集し、玉川兄弟がこれに応募し見事に完成させたのである。この様な背景の元に戦国時代が終り平和が訪れてから67年後に、江戸の元禄文化・看物文化が花開いた。
 水は低い方へしか流れないので玉川上水の掘削工事には夜間提灯をかかげて高低差を計って工事を進めたとも言われているが、専門家の中にはこの方法では正確な高低差は測れないと言う人もいて確かな事は良くわかっていない。工事費用としては完成までに更に三千両が追加交付された。このように玉川上水は費用も規模も並外れて大がかりなもので、この用水の完成は先日東京都の副知事が新聞紙上言っていた様に、現在ではとても不可能な偉業である。この玉川上水の取入口である羽村にも、大江戸の水を供給している誇りをうたった「玉川上水江戸の母」と言う民謡がある。
 またこの用水は「野火止用水」をはじめ36の分水を主に田圃の用水として武蔵野の農業の発展にも貢献した。

拝島分水 2007年
拝島分水 2007年

 

 また戦後、東京の人口の飛躍的増加にともない江戸川・荒川・利根川の水も用水として導入されたが、現在でも東京の用水の2割は多摩川水系の水によって賄われているといわれる。
 昭和8年には村山貯水池(多摩湖)山口貯水池(狭山湖)の完成に伴い玉川上水の水の7割は羽村取入口から100メートルくらい下流にある取入口から直接村山・山口貯水池に水道管で送水され、そこから淀橋浄水場をへて都内に給水されていたが、淀橋浄水場廃止後は両貯水池から直接都内各方面に給水されているという。一方残り3割の玉川上水の本流も小平監水場で浄化されて都内に供給され、小平より下流は流れていなかった。しかし各方面から環境浄化運動が起り東京都の水道整備計画により現在は昭島市にある「玉川上流水再生センター」を介して小平より下流に下水道の水を浄化した水を流し、下流は神田川に合流している。
 玉川上水の水源である多摩川は鮎が多く遡上し、立川市史によると私の記憶が正しければ年間数万尾を江戸に出荷していたという。とれた鮎を入れた駕籠を夜中に二人でかついで早走で歩くと翌未明に四谷大木戸に到着し、問屋におろして江戸市中に販売したと言う。これとは別に多摩川べりの村々は組合を作り組合単位で年間千数百尾を江戸城に献上していたが、その組合の中心が柴崎村(現立川)から拝島村(現昭島)へ移ったという記録もある。
 玉川上水に関しては早くから国の史跡に指定するよう運動が行われて来たが上水の用地と民有地との境界が登記簿上明かでなかった為、なかなか実現しなかった。しかしその整理も終り十数年前に国の史跡に指定された。現在は玉川上水と関係史跡とを合わせて世界遺産にしようとする運動が始っている。
 私は地元であるからしばしば玉川上水を訪れたが、とりわけ西武拝島線の東大和駅南口から15分位歩いて玉川上水緑道に出た時の事が印象に深い。この道は上水の流れに沿って西武国分寺線鷹の台駅迄延々と続いている雑木林に囲まれた美しい道である。この辺りの上水は両岸が土のまま深く刻まれ開削当時の面影を深く色濃く残しているように思われた。

早春の玉川上水 1996年小平市
早春の玉川上水 1996年小平市

 

そこから更に下流に行くと国木田独歩の「武蔵野」を記念する碑があり、更に下流の三鷹市内に入ると太宰治と愛人が身体を結び合わせて入水自殺した場所がある。そんな場所に記念碑など建てられないので、ただ場所を示す簡単な表示があるという。また近くの禅林寺には森鴎外と並んで太宰治の墓があり、命日の6月13日には「桜桃忌」という太宰をしのぶ会が開かれ文学好きの人が集っているようだ。私も禅林寺に行き太宰の墓にお参りした時、彼が投身自殺した場所へ行って見たいといろいろ迷ったが、結局その場所には行かなかった。

2016-08-22 17:04:00

榎本良三のエッセイ