江戸の繁栄を支えた玉川上水の事を書いているうちにまだ他にも江戸の繁栄を支えていたものがあるような気がしていた。
それが何であるか考えているうちに、縞市(「横縞縦縞」の織物の市と言う意味か)を中心とした八王子の織物文化であることに気がついた。八王子城は豊臣秀吉の小田城攻めの際、前田利家・眞田昌幸らの連合軍の攻撃により落城し、滅亡した北條氏に替って徳川家康が関東の支配者となったが、家康に従って八王子代官として八王子に入った大久保長安は、城下町が戦火によって荒廃したため、現在元八王子と言われる地域から、少し前に開通したばかりの甲州街道沿いに城下町を移した。そして横山宿、八幡宿、八日市宿の3宿を合併した甲州街道の宿場町・八王子宿として再建した。
小仏峠 八王子市甲州街道 昭和57年4月「1982年」
宿場町はどこでもそうだが街道にそって鰻の寝床の様な細長い土地と家屋がならび、市が開催されたがそれは「六斉市」という毎月6回市が開かれる中世後期からの伝統を継承するもので、八王子では4と8のつく日に宿場の家々の前で開催され、その家々の真中を甲州街道が通っていた。横山町・八日市町の2宿の前では北側が紡座・高見世座(縁台の様に高い所から売る店)・紙座・麻賣座・太物座・塩肴座、南側が、紡座・紙座・繰綿座・穀物座・塩肴座の市が立っていた。その市は4日・14日・24日に横山宿で、8日・18日・28日に八日市宿で開催された。一方織物業は近世初期にはじまり、八王子が甲州街道の宿場町で毎月市が立つ好条件に恵まれたため、江戸中期には織物を作る売手とその織物を買って使う買手との取引の場である市に縞買と呼ばれる仲買人(問屋)が生れ、その問屋は生産者から市で購入した織物を各地の小売呉服店に売り渡すシステムが確立した。そして絹を中心として綿や麻などの織物の市は「縞市」に統合され、多摩・相模・甲洲などからも織物が縞市に集まるようになり、近隣の農村は蚕を育てて繭を作らせ絹糸を取りだす養蚕業が盛んとなり、大きな収入源とするようになった。そして縞市は飛躍的に発展し、江戸後期の文化文政時代には織物の町として八王子宿の規模も3宿から15宿まで拡大した。この時代の縞市の模様は江戸後期の儒学者塩野滴斉の著書「桑都日記」に活気あふれる様子が生々とした絵画としてえがかれている。
そんな関係から織物業や織物問屋の仕事で豊かになった旦那衆がたくさんいたので、その人達がお客になって花街も大変繁盛し芸者さんもたくさんいたが、今はほんの少ししかいなくなった。
織物問屋は前述の様に多摩を始め相模・甲斐など広く呉服店に品物を卸ろしていたが、最大の得意先は文献には充分に顕れていないが江戸の呉服屋であった。その頃江戸の文化は11代将軍家斉の文化文政時代を迎えて幕政にも色々な改革が加えられ、爛熟の時期を迎えていた。安永5年(1774)の調査によれば、江戸の商店のうち、古着屋が店舗数3950軒で最も多く次いで小間物店・質屋などが多かった。食べ物の関係では蕎麦屋・饂飩屋・寿司屋・お茶付屋・漬物惣菜店など外食用の店が多かった。呉服店は江戸初期にはそれ程多くはなかったが次第に増え古着屋から呉服店になった店も多かった。
呉服店で八王子織物の得意先であった店の中から明治時代になって現在のデパートに成長した店があったが、例えば越後屋呉服店は創業者三井高利により比較的早く1673(延宝元年)江戸と京都に呉服店を開業したがその二つの店では世界に先がけて掛値なしの店頭均一販売を行った。従来は掛値を加えた対面販売が主流であったので売上げは一挙に6倍に増加したと言われている。その後明治になってからデパートメントストア(綜合小売店)に発展した。「三越」と言う名前は三井の三と越後屋の越をくっつけてデパートの名前としたものである。
大丸は1717年(享保2年)下村彦右衛門正啓が京都伏見に呉服店「大文字屋」を開業、その少し後、名古屋店開店の時から「大丸屋」と呉服店の名前を改めた。江戸には1742年(寛保3年)江戸日本橋大伝馬町に開店した。
その他明治以後デパートになった大きな呉服店には松坂屋、白木屋、布袋屋、などがあった。伊勢丹は明治以降の創業である。
旧家の軒先(青木家)の映画撮影 昭和10年(1935年)
縞買と呼ばれていた八王子の問屋の中には最大の得意先である江戸の呉服店から、例えば「越後屋七兵衛」とか「大丸喜右衛門」とか「松坂屋多助」とか言うように呉服店の名前を用いることを許されていた問屋もいたと言われている。そんな状況で井伊大老による横浜開港後の幕末には、絹や絹織物を運ぶ為八王子と横浜には絹の道(シルクロードの訳語)と名付けられた道路が作られた。
今日我々が江戸文化と呼んでいるものは貴族の文化でも武士の文化でもなく、庶民の文化でありその中核はズバリ言えば着物であり食べ物である。食べ物の事はしばらく置くとして尾形光琳から酒井抱一をへて琳派と呼ばれた優れたデザインを生かした歌舞伎芝居や遊廓ではあったが一種の社交場でもあった吉原の花魁道中などの豪華な衣裳、またたびたび幕府から処罰を受けながらもやまなかった祭りの際の富裕な商人の妻達の衣裳くらべなど着物文化が庶民のすみずみまで江戸時代の文化として定着した。恐らく着物がなければ喜多川歌麿や写楽・葛飾北斎など世界的に高く評価されている浮世絵版画も生れなかったであろう。この多彩な着物文化の中心である江戸の呉服店に織物を供給し続けて来た八王子織物も江戸文化を支えてきたと言えるだろう。但し八王子の織物は江戸の先進的なデザインや全国各地の織物(例えば博多織)の特長を組合せて着物を作り出す高度な技術を持っていたが独創性に乏しく、あまりに江戸に近くその影響を多く受けたために独自の八王子織を生みだす事は出来なかった。
八王子市 甲州街道 昭和52年(1977年)
それでも男性の服装が早く洋風化し女性も次第に洋服を着るようになるなかで化学繊維が生れてもそれをうまく取入れて戦前までは織物の町の風格を保っていたが、戦後の女性の服装が洋風化し着物を着なくなった時代の流れには対応できなかった。
然し八王子は広い町であるから大学や団地を始め色々な施設が出来て新しい織物の町とは異った町として再生している。
昨日老人ホームの納涼会があり私は最前列でカメラを構えていたが、着物姿で踊る女性を見てその着物と帯の美しさに心を奪れた。またずっと前の事だが昭和記念公園に花火を見に行く若い女性に何回か出会って浴衣姿に団扇を持った姿を美しいと思った事がある。
そう言えばあの「いちご白書をもう一度」や「中央ハイウエイ」などが記憶に残っているシンガーソングライターのユーミン(荒井由実 現松任谷由実)も甲州街道沿いの呉服屋(荒井呉服店)の娘であったと記憶している。
2016-09-30 17:12:00
榎本良三のエッセイ