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代官川崎平衛門の謝恩搭

代官川崎平衛門の謝恩搭

 国分寺市の北側五日市街道沿いの妙法院境内には武蔵野開拓に大きな貢献をした代官川崎平衛門に対する開拓農民の謝恩塔が立っている。この武蔵野の新田開拓はあの有名な大岡越前守忠相によって始められた。
 大岡越前守と言えば大岡政談を始めとする名裁判でひろく知られている。老中の指揮下にあるとはいえ江戸の町奉行の職は、今日で言えば東京都知事と警視総監・東京地方裁判所の所長を兼ねた様なもので、とりわけ裁判に強く関与していたと言われる。町奉行所は南北にあり、月番交替制であったとはいえ、20年以上も勤めて江戸の町民に深く信頼されていたのだから名奉行にふさわしいと言える。然し有名な三方一両損の話(大工が落した三両入りの財布を左官が拾い両人が受取ろうとしないので大岡越前守が一両足して四両とし両人に二両づつ与え、大岡越前守をふくめ3人が一両ずつ損をして裁判を円満に納めたと言う話)をはじめ、多くが後世彼を慕う人達の創作した講談・落語・小説・脚本などであることも事実である。
 一方で彼は江戸幕府中興の英主と言われる八代将軍吉宗の享保の改革の実務を担当しており、即ち吉宗の有力なプレーンであったのである。この面では江戸の町火消の創設や(1716年)養生所(病院のはじまり)の創設などが知られているが、もう一つ新田開拓があった。当時は幕府も大名も税務政策上年貢があがる新田の開発に熱心で、直営の外、代官見立新田、町人請負新田、などもあった。享保7年(1722年)大岡越前守の与力(部下)2人の名前で日本橋に高札が立てられ、商人の二、三男で武蔵野原野開拓の志あるものは若干の支度金を与えるから申出よとの趣旨の内容が書かれていた。これに多くの町人の二、三男が応募し武蔵野の新田開発が開始されたのである。
 しかし開拓は思うように進まなかった。当時の武蔵野は道路も水路もなく、未開拓の原野であったからである。そのころの文献によると収入源となる農産物も開拓が進まないため少ししか獲れないので、男達は皆江戸へ出稼ぎに行ってしまい、家の中では妻や娘達がろくに着るものもなく半裸の状態で寒さに震えていたと言われている。
然し1740年(元文5年)川崎平衛門が開拓地の代官として着任し、それ以後彼は開拓農民の立場に立ってさまざまな施策を行い、ようやく武蔵野の開拓が軌道に乗るようになった。
 その一つ二つをあげれば、川崎平衛門は開拓地を地域ごとに幾つかに分け、地域ごとに養老金組合を造らせ、そこに年貢の一部をさいて備蓄させ、凶作や災害の時にはそれを使い、凶作や災害のない時にはそれを売却してお金を農民に分配したと言われる。
 又彼はむらさき草の種を無料で配布し、植えさせたとも言われている。むらさき草は多年草で冬は枯れても又春になると芽が出て高さ60センチ位の白色の花を咲かせ、根は紫色これを乾燥したものが紫根(しこん)で解毒剤・皮膚病の薬になるほか着物時代には重要な紫色の染料として農家の副業として相当な値段で売れ農家の貴重な収入源となるものであった。

草木染めハンドブック 山崎和樹著 文一総合出版2015より
草木染めハンドブック 山崎和樹著 文一総合出版2015より

 

この様な代官と開拓民とが一体となって努力した結果広大な武蔵野の開拓は成功し数多くの新田が生れ、村々が成立した。
 例えばエノキド新田、本田新田、戸沢新田(国分寺市)鈴木新田(小平市)梶野新田(小金井市)中藤新田(武蔵村山市)狛江村(西東京市)砂川村(立川市)等主に五日市街道沿いの村々である。そして代官所があった埼玉県入間郡三ヶ島村(所沢市)には川崎平衛門を祭る川崎神社が建てられた。
 天領(幕府が直接治めている土地)の代官は転勤があるので川崎平衛門はその後飛騨高山へ転勤し、ここでも大きな業績を残したという。
 開拓が終って寛政7年(1795年)になってからかつて養老金組合の組合長であった人が昔の恩を忘れてはいけないと、八十六新田の名主らに呼びかけて賛同を得、近くの妙法院に謝恩塔を建立した。

川崎平衛門謝恩搭 国分寺市妙法院 平成9年10月
川崎平衛門謝恩搭 国分寺市妙法院 平成9年10月

 

謝恩搭上部
謝恩搭上部

 

 猶新田の水は玉川上水野火止用水からの他、直接多摩川からも引いた。
 江戸時代の物語や小説などには悪代官に対して農民が百姓一揆を起して代官を追放したりする話が多いが、代官への謝恩塔を造ってその恩を感謝すると言うのは例がないのではなかろうか。それだけに川崎平衛門の人格と手腕がしのばれる。私は身近にこの様な人物が居た事を大変誇りに思っている。

2016-11-25 17:25:00

榎本良三のエッセイ