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東村山正福寺の地藏堂

東村山正福寺の地藏堂

 私はずっと以前から多摩をテーマとして写真を撮っていたが郷土史についても興味を持っていたので早くから正福寺の地藏堂が東京都で唯一の国宝の建造物であることを知っていた。そこで昭和57年(1982年)、今から30年以上前に東村山の正福寺に出かけた。拝島駅から西武拝島線に乗り東村山駅で下車、12-3分歩き、地藏堂に到着したように記憶している。地藏堂で本尊の地藏様を直接すぐ近くで礼拝することは出来なかったが、鎌倉の円覚寺風の左右両方に高く反った屋根が印象に残っている。

東村山正福寺地蔵堂 昭和57年6月(1982年) 東村山市
東村山正福寺地蔵堂 昭和57年6月(1982年) 東村山市

 

また地藏堂には本尊のほかに小さな地藏様がたくさんあり、住民は願いごとがあるとその一つを持って帰り、願いごとが叶うともう一つ別の新しい地藏様を作って納めると言う習慣があるという話もその時聞いた。
 参拝後私は正福寺の縁側で妻の作ってくれたお弁当を食べ、近くの花菖蒲で知られている北山公園をまわって、更に小高い丘の八国山の雑木林から埼玉県所沢方面を眺めてから帰宅したように記憶している。然しこの時はこの様な場所になぜ東京都で唯一の国宝建造物が建っているのか疑問も残った。

東村山北山公園 昭和58年(1983年)6月
東村山北山公園 昭和58年(1983年)6月

 

北山公園の菖蒲園 昭和59年(1984年)6月 東村山市
北山公園の菖蒲園 昭和59年(1984年)6月 東村山市

 

 その後明治23年(1909年)初めての西洋式建造物の宮殿として完成した現在の迎賓館赤坂離宮が国宝として指定されたので現在は東京都で唯一の国宝建造物ではなくなったが、木造では唯一の国宝建造物であることには変りはない。
 寺の言い伝えによると正福寺は臨済宗建長寺の末寺として弘安元年(1278年)当時鎌倉幕府の執権であった北條時宗によって開創されたと言われる。北條時宗と言えば、日本を属国にしようとしこれを拒否した鎌倉幕府に対して二度にわたり北九州に上陸した元の皇帝クビライの侵略軍の大軍を撃退した日本史上の英雄である。然し彼は1284年年34才の若さで病死しており、地藏堂は昭和9年の修理によって発見された墨書銘によって応永14年(1407年)建立と推定されているので少し時代が合わない様な気もする。
 またこの地蔵堂は、時宗が鷹狩りの際疫病にかかった時、夢の中でお地藏様が現われこの丸薬を飲めば全快するとお告げがありその丸薬を服用したところ全快したので、飛騨から工匠を呼んで造らせたとも言われている。いずれにしても当時政治の中心だった鎌倉から遠いこの地に時宗の建立した鎌倉円覚寺とならぶ立派なお堂が作られた事は大変興味ある事実であるが、この堂が東京都で唯一の国宝建築物である理由の一つは、江戸時代からの重要な東京の建築物が多くの戦火・災害によって失われた事にもよるだろう。
 その第一には明歴3年正月18-19日(1657年四代将軍家綱の時代)に起った明歴の大火が挙げられる。この時の焼失町数は400町、死者10万人にのぼり、江戸城本丸、二の丸も焼失、外廊の二の丸は再建されたが本丸は再建されず江戸のシンボル江戸城の本丸天守閣がなくなった。恐らく太平の世になって本丸天守閣は必要ないと考えられたのであろう。
 この火事の火元は本郷丸山町の本妙寺と言われ、俗に振袖火事と言われる。当時、人が死ぬと死んだ人の衣類を寺に納める習慣があり、ある家で娘が死んだので娘が着ていた振袖を寺に納めた。寺はそれを古着屋に払い下げた。古着屋はその古着の振袖を売った。すると古着屋からその振袖を買って着ていた若い娘が少したって死んでしまったので両親は寺へ娘の振袖を納めた。寺はいつも通り古着屋へ振袖を払い下げ、古着屋はそれを若い娘に売った所が今で言えば結核にでも感染したのであろうかその振袖を着ていた娘が間もなく死んでしまった。そこで両親は同じように寺に納めた。
 寺の住職は同じ振袖が3回も寺へ返って来たので気味が悪くなってお施餓鬼(おせがき:仏教の行事)の時3人の両親を呼んでその振袖を焼く事にした。ところが少し風が強かったのか、火のついた振袖がひらひらと舞い上がりそれが本妙寺の屋根に燃えうつって江戸中を焼きつくす大火になったといわれている。
 第二は明治維新の際の戊辰戦争である。西郷隆盛と勝海舟の会談によって江戸城の無血開城が決まり、江戸は戦火をまぬがれたが、それに不満をもった幕臣二千人あまりが彰義隊を結成し、上野の山にたてこもり新政府に反抗した。しかし彰義隊は、日本陸軍の創始者・大村益次郎が指揮する新兵器を持った部隊により鎮圧された。しかしその際上野の山は戦火にさらされ、将軍家の菩提寺である寛永寺を始め、多くの建築物が失われた。大村益次郎自身も間もなく京都で暗殺された。
 第三は関東大震災である。1923(大正12年9月1日に発生し相模トラフ附近の断層を震源とする関東大地震(マグニチュード7.9)が起り、京浜地帯は壊減的打撃を受け、多くの古い町並が失われた。幸い立川など多摩西部は大きな被害はなかった。私は大正12年9月3日生れで、震災そのものは母のお腹の中でわからなかったが、小さい時父や母から大震災のあとしばらくの間は余震を警戒して雨戸を外し庭に雨戸を置いてその上に布団を敷いて寝たという話を聞いた。
 最後は昭和20年(1945年)3月10日の、太平洋戦争中のアメリカ軍のB29爆撃機344機による夜間大空襲で、死者約10万人、焼失戸数約27万戸、下町地域中心に主都の約40%が焦土と化し、浅草観音、浅草寺、雷門、三社祭で有名な浅草神社や五重塔、浅草六区と言われる娯楽の大繁華街など、多くの建築物が失われた。そしてただ一つ東村山の正福寺地藏堂が残ったのである。
 この戦争は日本が起した戦争であるが、米軍の文化的配慮によって奈良、京都は空襲を免れた。

2017-02-01 17:36:00

榎本良三のエッセイ