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天然理心流剣法・日野農兵隊と佐藤彦五郎

天然理心流剣法・日野農兵隊と佐藤彦五郎

榎本良三

幕末維新の動乱期に江戸にはさまざまな剣道道場があったがその一つに近藤内藤助長裕が創始した天然理心流の道場があった。道場は両国薬研掘にあり当時としては北辰一刀流などに較べると三流の道場であったが、長裕は足繁く武州多摩地方に通って天然理心流を広めた。そんな関係で多摩は次第に天然理心流が盛んになった。その背景には江戸時代後期、幕末が近づくにつれて天領(代官が治める幕府の直轄地)と旗本領における治安が悪化し富農層が自衛の為剣術の修行を必要とした事がある。但し天然理心流が定着したのは現在の羽村市の手前位迄で、それより西の奥の青梅で盛んであったのは甲源一刀流で、その代表的な剣客は実在の人物ではないが中里介山の小説「大菩薩峠」の主人公、机竜之助である。天然理心流は日野本郷の佐藤彦五郎、小野路村の小島鹿之助をはじめ多摩の有力後援者を得て多摩の剣法として定着した。
天然理心流は長裕から数えて四代目に当る近藤勇のときに十四代将軍徳川家持が上京の際幕府が募集した護衛隊に応募し、さまざまな経緯があったが京都に残って京都所司代松平容保の配下として新撰組を組織して京都の治安維持に当り、有名な池田屋事件を起し一躍天下に名を馳せた。
私は幕末のいろんな事件について全て倒幕派は善、幕府側は悪と言うような固定した見方はしていないので、京都に火を放って全焼させこれに乗じて天皇を奈良に移して尊王攘夷も実行しようとした浪士達の無望な企てを阻止した点で幕末史の中で一定の評価を与えている。この事件で新撰組の局長近藤勇や副長土方歳三、新撰組随一の名剣士とうたわれた沖田総司らの名声が一躍高まった事は言うまでもない。その近藤・土方・沖田らは上京前、剣道師範として日野村の佐藤彦五郎の道場に頻繁に出入りしていた。近藤勇をはじめ新撰組の人々はその後伏見鳥羽の戦で幕府軍の一員として薩摩長州を主力とする倒幕軍との戦いに敗れ江戸へ還った。幕府の陸軍総裁勝安房(海舟)の命により甲州城へ入城を命ぜられたが、新撰組を主力とする幕府軍が甲府城に入城する前にすでに討幕軍が先に甲府城に入城しており、幕府軍は勝沼付近で討幕軍と戦って敗れ討幕軍は八王子に進攻した。近藤勇と親交深かった佐藤彦五郎は大久野の旧家の床下に隠れて討幕軍から遁れたと言われている。
近藤勇が勝海舟から甲府城入城を命ぜられたのは主戦派である近藤を討幕軍の江戸城総攻撃を前にして遠ざけるためとも言われ、甲州城への入城が遅れたのは江戸へ戻った近藤始め新撰組の人々が凱旋将軍の様に迎えられ、郷土の人々と連日盛大な宴会を繰返していて甲府へ進軍するのが遅れた為ともいわれる。その後新撰組の生残りの人々は流山付近に集まり、密かに訓練を重ねていたがやがて官軍に見付かり、近藤勇は同士を救うために名前を大久保大和と偽って自主的に出頭したがやがて本名がばれて後日斬首された。土方は会津にのがれ最後に北海道の五稜郭で流弾に当って死んだ。沖田総司は結核の為江戸の知合いの植木屋で療養していたが間もなく亡くなった。
たまたま佐藤彦五郎の孫にあたる佐藤晃氏は元日野郵便局長で私は長い間拝島郵便局長をしていたため佐藤氏とは別懇の間柄であった。そんな事から彼が東洋大學史學科の出身で新撰組に関する著書もあり講演会等も行っていたので彼との話の中でよく新撰組の話が出た。今迄書いた様な話の外に佐藤氏の話しで印象に残ったのは、新撰組随一の名剣士と言われた沖田総司は祖父から聞いたところではヒラメの様な顔をしていたと言う話だったので、若い女性を対象にした講演会などではその話はしないと言っていたことである。彼は恐らくヒラメの様な顔とは平べったい顔と解釈して、名剣士であると同時に美男子であったろうと言う彼のイメージにそぐわないと考えたのであろう。ところがその後ある人がヒラメの様な顔とは目と目が近いと言う事であり鋭い顔で美男子であったのではないかと言う説を説いた。ジャーナリズムの間では沖田の顔をめぐって今でもそんな議論をしている様だ。しかしこの沖田総司の顔の話は佐藤晃氏の話が元になっていることは間違いあるまい。実際のところは写真がないからよくわからない。

土方歳三像 平成15年6月 (2003年)高幡不動
土方歳三像 平成15年6月 (2003年)高幡不動

 

近藤勇や土方歳三は写真があるからはっきりしている。とくに土方歳三が北海道で英人写真師に写してもらった写真は美男子に写っているので最近では近藤より土方の方が人気があるような気がする。三十年前日野の石田寺の土方の墓へ行ったときにも、たくさんある土方という家名の墓石の中でこれがそうだと言う墓石の前にはダンボールの箱が置かれてあり、その中には何冊ものノートが置かれていて、めくってみると若い女性が書いたらしく「土方さん愛しています」などと書かれていた。土方の墓はその後もとの墓の横に立派な墓が出来た。
其の後何年か経って私は三鷹市の龍源寺にある近藤勇の墓を訪れた。近藤家の墓は土方家の墓より少し大きい様に思われたが、墓の前は塔婆が乱雑に散らばっていたりやや寂れているように見えた。すぐ寺の近くにあった近藤勇生誕の地の立札の近くにも人影はなかった。然し私は新撰組に於て近藤と土方とは役割が違い、それぞれの生き方も違っているので顔の美しさだけで近藤を軽視することは許されないと思っている。
唯言える事は、伏見鳥羽の戦いで近代的な鉄砲や大砲を取り入れる事で一歩先んじていた薩摩長州の連合軍に幕府軍が敗北した時点で日本刀や槍騎馬などを主体にした戦争は終ったと言う事であり、戦国時代の川中島合戦における武田信玄と上杉謙信の一騎討ち、巌流島に於ける宮本武蔵と佐々木厳流の一戦、池田屋事件における近藤勇、沖田総司らと尊王攘夷の浪士達と言うような日本刀による一対一の戦い、つまりサムライの時代は終ったという事であって、新撰組の隊士達がサムライ時代の最後の英雄であったと思う。それが維新動乱期における業績とともに今日まで語りつがれている理由であると思う。
佐藤彦五郎は新撰組の後援者であると共に豊かな農家であり日野村(日野本郷)の名主でもあった。当時日野村(日野本郷)は天領であり代官は韮山の反射炉で有名な、幕末の砲術家江川太郎佐衛門であった。元来農民が武装する事は江戸時代には禁止されていたが幕末の治安悪化にともない黙認されていた。江川氏は自分が代官を世襲している領地で農兵隊を組織し、当時盛んであった天然理心流を学んでいた千人同心達に剣術を指導させ同時に旧式ながらゲーベル銃と言う銃の使い方などの訓練を行っていた。佐藤彦五郎は日野の名主であると同時に農兵隊の隊長であった。
慶応2年(1866)6月秩父に起った世直し一揆はたちまち関東の各地に波及した。その原因は、その年の長州征伐の為幕府が大量の米を買入れた事、横浜開港によって多額の金が流出し、それが物価上昇を招いた事などによると言われている。日野農兵隊が関係している一揆打毀しは飯能市の旧名栗村に起り日光街道(八王子千人同心が江戸時代の初めに日光東照宮の火の番警備を命ぜられた為に新しく開かれた街道)を南下し扇町屋(入間市)二本木箱根ヶ崎(瑞穂町)を通って拝島に到り、主に米屋をねらって打毀しを行いながら勢力を増し、奥多摩街道に入り田中村・大神村を通り、宮沢村にて当時酒造業を営んでいた田村家を襲いさんざん斧やカケヤ、ノコギリなどを使って家や酒倉を打毀した為に、宮沢村の道路は流出する清酒にあふれていたと言われる。

あじさいと高幡不動五重搭 平成62年7月「1987年」
あじさいと高幡不動五重搭 平成62年7月「1987年」

 

一揆はさらに八王子を通って横浜に行く為、多摩川の日野の渡の上流にある築地の渡を渡ろうとして築地河原に殺到した。この一揆は「武州世直し一揆」と呼ばれているが、日野村(日野本郷)へはたまたま世直し一揆が押寄せると言う情報が伝えられたので佐藤彦五郎率いる日野農兵隊は多摩川の両岸に展開していた。農兵隊は前にも述べた様に旧式ながらゲーベル銃と言う銃を持ち発射法を訓練されていた。武州世直し一揆が築地河原に到着し多摩川を渡ろうとした時待ちかまえていた日野農兵隊は一斉にゲーベル銃を発射した。ところが一揆の側は打毀しの為のオノ、カケヤ、ノコギリなどは大勢が持参していたがそれらは家屋を打毀す為のもので戦闘用のものではなかった。そこで農兵隊の一斉射撃に驚きひるむ所を農兵隊の一部の隊士が多摩川を渡り天然理心流の剣をふるって一揆の間に切りこみ、切りまくって次々と一揆の暴徒を切り倒した。そこで一揆の側は大混乱に落ち入り、ちりぢりばらばらと成って自然と解散状態となり築地河原の戦は終った。現場は死屍累累としていたが、残った一揆の人は役人に逮捕され後日処刑された。私の親しい友の祖父も一揆に巻込まれ隣家の庭で処刑された。
一揆に参加した人々は、必ずしも本意ではなく参加しなければ家も打毀すとか、家族に危害を加えるとか言われてやむなく参加した人も何人も居た。親友の祖父もその一人であったが、裁判もなく前述の様に隣家の庭先で処刑された。
なお築地河原の現場は死体が参乱していたが、それらの死体は江戸時代どこの村にもあった士農工商の下にあり非人と呼ばれた部落の人々によって片付けられた。(部落の人々は牛馬の死体をあつかう仕事に従事したと言われる)
非人と言う言葉が出て来た歴史的に著名な例では関ヶ原の天下分目の戦いに敗れて捕えられた石田三茂、小西行長、安国寺恵慶の三人が非人の服を着せられ大阪と京都の市中を馬に乗せられ引廻されて四條河原で首をはねられた例が知られている。
まもなく江戸城は無血開城され2年後の1868年、年号は明治と改められ明治維新が実現し徳川幕府は滅亡した。
対幕の主力となった薩摩長州藩が関ヶ原の戦に敗れた西軍に属していた事は歴史の皮肉である。維新動乱の時代を生きた佐藤彦五郎は明治31年まで生き延びて生涯を終った。

2015-11-19 14:49:00

榎本良三のエッセイ