天正10年2月、甲斐の名門武田信玄の後を継いだ武田勝頼は織田・徳川の軍に攻められ天目山の山麓で自刃し武田家は滅亡した。(1582年)この時信玄の四女松姫は、信玄の五男で、仁科家の家名を嗣いだ仁科五郎盛信の居城・高遠城を訪ねていたが織田の軍勢が攻めて来ると言う知らせを聞いて急遽甲府に引帰し、兄盛信の4歳になる督姫と勝頼の娘で4歳になる貞姫を伴って護衛の武士に護られながら関東を目指して落ち延びた。そして甲州街道の小仏峠でなく、和田峠を越えて武蔵国の思方村(現八王子市)にたどりつき、ひとまず金照庵と言う小さな庵に落着いた。
陣馬街道(古甲州街道の和田峠のある街道) 昭和63年5月(1988年)
やがて松姫は近くの曹洞宗の名刹心源院にト山和尚を訪ね、禅師の下で剃髪されて法名を信松禅尼と称された。松姫22歳の時であった。天正18年(1590年)松姫は自分の庵を持たれるべく当上野原の景勝の地、御水の里に移り住まれ、それが現在の信松院である。
平成28年1月 八王子市台町
そこで松姫は武田一族の菩提を弔われる毎日であったが、その傍らに絹を織られたりして織物の技を里人に伝えられた。この時松姫が伝えた織物が後世八王子の主要産業となった八王子織物として発展していったといわれている。
その後、徳川家康が関東へ入って居城を江戸城にかまえたが、松姫が八王子にいる事を知って寺領を贈り、時折りその暮らしをなぐさめたり親交があったと言われている。
東照宮家康から贈られたお椀
松姫像 平成28年1月 八王子市台町
ところで徳川家康のなくなった後の2代将軍は家康の三男秀忠がついだが、秀忠は家康が定めた武家諸法度に基き39大名を改易するなど大名朝廷寺社の統制を強化して幕府の創業の基礎を固めた立派な将軍と言われている。さらに家庭でも淀君の妹である奥方の良き夫として側室も持たなかった人と言われている。今日の言葉で言えば彼は恐妻家愛妻家としても知られているが、彼の唯一の過失は奥方に隠して侍女に生ませた隠し子がいた事である。
秀忠はその子をひそかに松姫が開いた八王子の信松院に頼んだ。信松院では乳母をたのんで5歳まで養育したと言われている。
5歳になってから伊那3万石の保科氏の養子となったが、これはひそかな秀忠の命によるもので保科氏では廃嫡して養子に迎えたと言われている。これが後の保科正之である。正之は成人して異母兄である3代将軍徳川家光との対面も果し、やがて会津藩23万石の藩主となり領内に社倉(飢饉の時にそなえて米類等を備蓄する倉庫)を建てるなどして善政をしき又4代将軍家綱を補佐し、老中会議にも出席し、色々意見も述べたりしていた。
その時代は3代将軍家光の時代までに前述した様に39もの大名を改易したの
でその家臣達は浪人となり、江戸・大阪京都を始め大都市には浪人があふれていた。そしてその浪人達が不満をつのらせ、ついに由井正雪・丸橋忠彌らの慶安事件(慶安4年:1651年)という討幕運動を引き起した。
この事件で由井正雪・丸橋忠彌等は駿河、江戸、京都、大阪等で兵を挙げようとしたが、事前に発覚し正雪は自刃し忠彌は逮捕され磔刑(はりつけ)になり騒動は鎮圧された。
4代将軍家綱の時代になって老中達は老中会議で浪人達を江戸、駿河、大阪、京都等の大都市から追放するよう主張したが、将軍を補佐していた保科正之は、浪人が今日でいえば失業者であることを認識していたので諸大名が禄高に応じて浪人を召抱えるよう提案し、実現させた。その結果治安は安定し5代将軍綱吉の元禄の世を迎えることになり、保科正之は名君とたたえられるようになった。正之は今日でいえば失業問題解決の先駆者と言われている。
正之が幼年時代5歳まで八王子にいて信松院で松姫に育てられた事について、事実であることを確認する資料がないなどと言う郷土史研究家も多くいるようだ。しかし、私はもし保科正之が2代将軍家忠の隠し子であったとすれば、隠し子に正確な史料などあるはずもなく、むしろ伝説であることの方が道理にかなっていると思っており、「火のない所に煙はただず」と言うように、この話の中にも何らかの真実が含まれていると思う。但し松姫は信松院と言う尼寺の主催者であるから恐らく乳母に依頼して育てたのではないかと考えている。
また八王子に逃れて来た武田家の遺臣も皆松姫と信松院を援助したと言われている。この遺臣達は後に八王子代官大久保長安の元に組織され千人隊として幕末まで日光東照宮の火の番警備に当ることになる。
私も先日信松院に行き松姫の肖像を見て来た。4月16日八王子市で初めての松姫祭が行われるそうで楽しみにしている。
武田信玄4女信松院松姫400年祭稚児行列 八王子市八幡町交差点 平成28年4月16日
2017-04-21 17:58:00
榎本良三のエッセイ