老人ホームの私の隣りの部屋に居る松島さんは本年の誕生日の2月で百歳になった女性で、このホームの最長寿者である。その松島さんは、先日お会した時の話では山梨県丹波山村鴨沢の出身で、小河内ダムが出来て村が水没するために昭和19年(1944年)、立川富士見町に移転して来て家とアパートを建てられたそうだ。
私は18才~20才頃の短い間ではあるが登山に熱中した事があり、鴨沢の名を知っていた。それは東京で一番高い、標高2017メートルの雲取山の登山口として山仲間では有名であった。しかしその山好きも私が昭和20年2月現役兵として東部12部隊(世田谷の砲兵隊)に入隊した事で終った。戦後、結局私は雲取山へは登山しないで終ってしまった。
私はまた、幼い頃父につれられて小河内温泉に行った。小河内温泉は鶴の湯と呼ばれ、東京都で唯一の温泉で5、6軒の温泉旅館と数軒の御土産店や雑貨屋があり、その豊かな温泉とひなびたただずまいが少年ながら強く印象に残っている。
石灰採掘の山 昭和58年11月奥多摩町
増加する東京の人口に備えるため、多摩川上流の雨や雪が流れこむ小菅川や丹波の水を集めて小河内にダムを作ろうと言う計画は、利根川水系も包めていろいろあったが、東京都水道局長から小沢一平小河内村長に伝えられたのは昭和6年(1906年)5月の事であった。そして昭和10年12月6日には小沢一平村長をはじめ1000人の村民が東京府庁にダム建設反対の陳情のため押し掛け、多数の警官隊に阻まれて揉み合いとなった。その結果、小菅村丹波山村を含め各部落の代表47人だけが東京府知事との面会が許され、反対の陳情をし、その後も何回も小沢一平村長らが反対陳情をしたが認められず、結局東京府と小河内村との間に移転補償等の協定が昭和12年6月に結ばれ、村民は故郷を離れて移転することになった。
移転する軒数は945軒にも及び、私の故郷、昭島市拝島町にも奥多摩街道から北へ少し離れた道路沿いに十数軒の人々が移転して来て、旧小河内村の祭りの時には故郷に帰られたのを覚えている。
御嶽渓谷 平成7年(1994年)11月
その当時流行した歌に「湖底の故郷」という歌がある。歌詞は一番しか覚えていないが
――夕日は赤し身は哀し
涙は熱く頬ぬらす
涙は熱く頬ぬらす
さらば湖底の故郷よ
幼き夢の揺り籠よ――
という三橋美智也が歌ったとても哀しい歌である。小河内ダムの問題は当時の大きな社会問題で戦後の事件で言えば砂川闘争の様なもので、両者に共通しているのはどちらの運動も郷土愛から始まっている事である。
そして小河内ダムは昭和13年に着工し、途中戦争が激しくなったため一時工事が中断した事もあったが昭和32年に完成し貯水を始めた。満水になって放水を始めると羽村の堰の上の小作からも取水を始めたので多摩川の中流の様相は一変した。台風の後などの増水した時を除いて多摩川の水より支流秋川の水の方が多くなり、広い多摩川の河原には木が生えているようになった。
然しこれは1000万都市にまで大きくなった東京の飲料水を賄うためには止むを得ない事と思う。多分小沢一平小河内村長も最終的にはこの様な判断をされたのだと思う。
新緑の奥多摩湖と釣り人 昭和61年(1986年)5月
戦後の東京都は利根川水系にもいくつかのダムを建設し、現在の給水量は利根川水系8割多摩川水系2割の割合になっているが、行政権のない他府県でなく行政権を持つ自府県にある小河内ダムの重要性は今も変りがない。
利根川水系でもオリンピック渇水(昭和39年)をはじめとして2度の渇水があり利根川水系の取水制限が行われた時があった。その場合東京オリンピックの時の渇水には東京都知事が御嶽神社に雨乞いしたり人工降雨の実験室を開設したりした。人工降雨の場合、雨雲に臭化銀を投入したりしたが、人工降雨も雨雲がないと効果がないので雨雲が出て雨が降っても人工降雨の実験が成功したのか自然に振ったのかよく解らなかったのか、また雨乞いも神様が東京都知事の願いを聞いて下さらなかったのか、その後実験が進んだり人工降雨や雨乞が成功したという話は聞いていない。
奥多摩への道 平成16年(2004年)2月 宮ノ平付近
東京都はこの渇水の経験にかんがみてダムサイトの左岸上流に放水用トンネル式放水路を作って渇水の時小河内ダムの放水量を増せるような工事を行った。
小河内ダムが完成後小河内村は奥多摩湖と言う湖に生れかわり、奥多摩観光の一大スポットになった。周辺道路等も整備された後私も3回程行って見たが湖は周囲の山々とよく調和して美しい湖になっている。然し私達は小沢一平村長の孫に当ると言う松島さん一家の言う通り、ダムの建設に当ってはさまざまな苦労があった事も忘れてはならないと思う。つけ加えればダム建設工事の犠牲になった人は84人にのぼると言われている。いかに難工事だったかが解る。戦後工事再開にあたって再開を許可した東京府議会が安全性に配慮するよう附帯決議を付けた程である。
つつしんでダム工事の犠牲になった人々に哀悼の意を表したい。
2017-05-18 18:11:00
榎本良三のエッセイ