府中市と言えば武蔵国の国府があった所として有名であり大國魂神社の暗闇祭や、新田義貞の鎌倉攻めの折りの分倍河原古戦場跡も有名だ。然し府中市は私の亡き姉の嫁入りした所なので、府中へ行っても婚家で話し込んでいる事が多く、大國魂神社以外には府中競馬場へ行ったくらいで他の所へ行った事が無い。
然し近年の発掘で、律令制で一国ごとに任命された国司が政務をとった役所である国府の遺跡が大國魂神社境内で発見され、その一部の建物が復元されているという。だから府中市は国司がいて役所があった所で、今で言えば東京都知事がいて東京都庁があった所と言えるだろう。国府が置かれた時期は律令政治の最盛期の奈良時代700年前後と見られている。
大國魂神社は府中市宮町にあり、主神は武蔵大国魂神、武蔵国の有名な神社6ヶ所を合祀したので六所宮又は六所明神とも言われている。創立時期は「延喜式」と呼ばれる、延喜5年(905年)に編集が始まった当時の宮中制度や議式の事を書いた本(50巻)にあきるの市の二宮神社と共に載っているので、平安初期の延喜5年前後と言われている。延喜式には載っていないが鎌倉時代の歴史書に載っていると言う人もいる。
大國魂神社 昭和59年(1984年)府中市
大國魂神社は灯火を消して闇夜に行う宵祭がくらやみ祭として全国的に有名で、甲州街道の旧宿場の入口附近には5月5日の宵祭り、本祭りの神輿の休息のために常設の御假屋が設けられている。同じく宵祭り、本祭りが9月19日の前後2日に渡って行われる拝島村(昭島市拝島町)の日吉神社では、御假屋は祭りの前日に仮設されるが、府中では常設されている。
大國魂神社のくらやみ祭 昭和53年5月(1978年) 府中市
府中も拝島もどちらも二日越のお祭りとして有名であり、江戸時代の祭りの様式を今に伝えるものである。聞く所によると、灯火を消して真夜中に行われたくらやみ祭りが一時は夕方の4時-6時となっていたが、伝統の復活を望む市民の要望により少し遅くなって最近は6時-8時と夜中に近くなったと言う。それには私の推測では一つの陰に隠れた理由が関係していると思う。それは新選組の土方歳三をはじめ複数の人がくらやみ祭りについて語ったことの書かれた本によれば、
江戸時代には、くらやみ祭の夜に限って独身の若い男性は知らない家でも勝手に家に入って娘でも人妻でも気が合えば一夜の契りを結び翌日にもし出会っても、お互いに何もなかった様な顔をしている習慣があったという。
勿論最近ではそんな事は許されないだろうが、それに類した事件が起ることを心配した警察が真夜中に灯火を消して祭をすることを許可しなくなったのではないかと勝手に推測している。
実際警察とっても一つの警察署で数十人の警察官を夜通し配置することは容易な事ではない。私もかつて永い間拝島村の日吉神社の神社総代を勤めていたが、一時期警察から、なるべく榊神輿の出発時刻を真夜中からずらす様求められた事があった。最近は伝統文化の尊重が叫ばれているのであまりその様な事はなくなった。しかしある時、深夜12時近くに午前1時に出発する榊神輿の進行役を努める年番役(祭りの進行係上、中、下の3町で交替で勤めるもので、幸い私の町内が年番ではなかったが)の一人が酒に酔って警備の為に来ていた警察官を殴ってしまった。警察官はたしか殴られた時に眼鏡をこわしてしまった様に記憶している。翌日祭礼終了後、役員総出で警察署に謝りに行き、中でも役員の中に居た元市役所助役(副市長)を努められた人や大勢の人の努力によってかろうじて翌年の祭礼も従来通り行うことを許された事があった。永い間には色々な事があるものだ。しかしそれも人間のやる事だから止むを得ない事だろう。
話は変わるが、南武線府中本町駅の一つ前の駅は分倍河原駅で駅前には建武中興の英雄新田義貞の銅像が立っている。鎌倉時代最初に武士の政権を作り鎌倉幕府を開いて征夷大将軍に任命された源頼朝の源氏は、三代目実朝が鶴岡八幡宮が源氏の氏神であることから参拝しようとした時、石段の途中で銀杏の陰にかくれていて飛出した兄(源頼家)の子、公暁に殺され源氏は滅びた。
その後京都から親王を形式的に将軍に迎えてその補佐役に就任した頼朝の妻政子の父北條氏政が実権をにぎった。この地位を執権と言い北條氏の子孫がこれを代々世襲し鎌倉幕府の最高権力者となった。執権北條高時の時上野・越後・信濃の国司であった新田義貞が鎌倉幕府を滅ぼそうとして鎌倉街道を南下し(武蔵路)これを阻止しようとする北條軍と小手指(飯能市)久米川(東府山市)で激戦を交え最後に武蔵国の中心である府中の分倍河原で多摩川をはさんで戦った。
この戦で新田軍は一たん敗れて退いたが再び盛り返して遂に北條軍を打破った。そして一気に鎌倉へ進撃し由比ヶ浜と七里ヶ浜の間にある稲村ヶ崎の海岸に名剣を投じ干潮に乗じて鎌倉に侵入し元弘3年(1333年)鎌倉を陥れた。
鎌倉古道 昭和59年12月 (1984年)
敗れた北條氏は執権北條高時をはじめ重臣等200人余りが1ヶ所に集り全員自刃したと伝えられている。そして北條氏は滅びた。
新田義貞は足利尊氏らと共に後醍醐天皇に従い建武の親政をなしとげた。府中市西部の分倍河原古戦場跡は、今は住宅地になっているが私達は南武線分倍河原駅前の新田義貞の銅像によってその凜凜しい面影をしのぶ事が出来る。
新田義貞像 府中市分倍河原駅前 平成2年3月(1990年)
唱歌「鎌倉」の最初の一節に出てくる、「七里が浜の磯づたい稲村ヶ崎名将の…剣投ぜし古戦場」とある義貞の鎌倉攻めの一節である。
2017-06-22 09:21:00
榎本良三のエッセイ