拝島大師の道を隔てて隣にある名刹大日堂の別当寺として、大日堂の維持管理に当って来た普明寺の南に、普明寺の隠居所があった。
天明5年ここで殺人事件が起った。
普明寺表門 平成12年10月(2000年)昭島市拝島町
犯人は青梅のとある寺の小僧をしていた25才位の青年であった。
彼は将軍の代替りに寺領(江戸時代の各地の有名寺院に与えられていた)を安堵する為の朱印状(朱印を押した公文書)をもらいに、寺の住職に同行して数回江戸へ出たことがあったが、
その江戸で、ふとしたことから遊びを覚え、甲州街道の起点である内藤新宿の遊廓へ登楼するようになった。そして何回か遊んでいるうちに一人の遊女に出会った。その遊女は同じ故郷の貧しい農家の出で、天明の大飢饉による不作のため実家が年貢を払えず、この遊廓に売られて来た娘であった。彼はこの遊女に夢中になった。
ところが寺の小僧の身分ではそんなにお金があるはずもなく、たちまち金に窮した。寺の小僧から秀吉にその才覚を認められ、佐和山19万石の大名まで取立てられた石田三成のような例もあるが、その小僧は特別な才覚もなく、そうしているうちに夢中になっていた遊女が神田の大きな呉服屋に身請されるという話が持ちあがったことを知った。彼は焦った。彼は小僧として以前福島村(現昭島市福島町)の広福寺や拝島村(現昭島市拝島町)の普明寺にも居たことがあった。だから隠居した普明寺の前住職の名前や顔をよく知っていた。
拝島の宿 明治35年(1903年)頃 たましん歴史・美術館 歴史資料室所蔵
追い詰められて、彼は遂にその御隠居から金を奪う事を思い立った。天明5年11月夜隠居所を襲い、隠居を刃物で殺し20両を奪った。その際たまたま遊びに来ていた青年も殺して隠居所に火をつけた。一緒にいた6才の近所の子供も殺そうとしたが、怖くなって子供は殺さないで逃げた。
燃え上る火花に近所の人が気づいて半鐘をならした為大勢の近所の村人がかけつけて消火に当り、隠居所は全焼したが延焼はくいとめられ、6才の小児は助け出された。その後幕府の役人が探索したが犯人は判明しなかった。そこで唯一人の犯行の目撃者である6才の小児にいろいろ問い質した所、小児は強盗犯人の額の右に痣がある事を示した。そこでそれを手掛りにしてさらに捜索した結果、犯人は青梅のある寺の小僧とわかり、内藤新宿の遊廓に登楼している所を逮捕された。
犯人は牢屋に入れられたが、牢名主(江戸時代囚人から選ばれ、その取締りに当り囚人の中で絶大な権力を持った人)の機嫌をそこねて人糞等を食べさせられたのかその年の暮に牢死してしまった。
春の多摩川 平成元年4月
そこで死体を塩漬けにして翌年春、多摩川の河原で柱を立て死体をしばりつけみせしめのため磔の刑にした。「見物人河原に満てり」と当時の上河原村(昭島市上川原町)の名主を勤めた指田家の日誌に記されている。
補足
私ははじめ死体を塩漬にして磔に処するなどと言う事は信じられなかったが昨年(平成27)12月の朝日新聞に幕末の大阪町奉行與力で陽明学者の大塩平八郎が米商人の米価つり上げ、町奉行の無策に抗議して兵を挙げたが敗れて自害したときその死体を塩漬にして、裁判が終ってから磔の刑にしたと言う記事が掲載されていたのでそれが事実であることを知った。
2017-07-25 09:27:00
榎本良三のエッセイ