写真を撮りに行く時、自宅の住所(昭島市拝島町)に一番近い駅は拝島駅であったが、住所から1.6キロメートルも離れていた。
そのため西の方へ行く時は拝島駅から青梅線や五日市線を利用して奥多摩渓谷や秋川渓谷方面へ出掛けたが、東の方に行く時は、すぐ近くにバス停があり15分おきくらいに立川行きのバスが出ていたので、それに乗って立川に出て中央線に乗って沿線各駅で降りてその近くの公園や寺社などに行く事が多かった。
従ってどうしても中央線が中心となり拝島駅から出ている西武拝島線沿線や、八王子から出ていて南武線分倍河原で乗換える京王線沿線などは行く機会が少なかった。
何年か前、私の写真集に田無の写真がない事を指摘され初めて田無へ行ってみたが青梅街道を本格的に見たのは始めてであったのでその並木道の美しさに圧倒された。
しかし今回は相変らず中央線の小金井について書きたくなったので書いて見ることにした。
中央線の小金井駅の北側からバスに乗って10分位すると小金井公園に着く。
小金井公園 昭和56年(1981年)7月 小金井市
又南側、玉川上水の手前には滄浪泉園がある。
小金井公園は広く立派な公園であり滄浪泉園は規模は小さいが中には泉のわく池などもあり晩秋の頃行った為か、入口の門の附近の落葉は美しく強く印象に残った公園であった。
滄浪泉園の入り口 昭和59年(1984年)11月 小金井市
聞く所によると滄浪泉園は元実業家の別荘であったものを東京都で買上げて都立公園としたもので、名付け親は昭和初期の政党、政友会総裁で内閣総理大臣であった犬養毅氏であったと言われている。
彼は1932年(昭和7年)5月15日、青年将校により暗殺された。
その際犬養毅は青年将校に対して「話せばわかる」と言ったが将校達は「問答無用」と言って犬養総理大臣に向って銃弾を発射したと言う。
背景には昭和初期の東北の飢饉と重なった深刻な経済不況があったと言われるが、この事件が昭和初期から終戦まで続く暗い時代の始まりであった。
滄浪泉園につづく道 昭和58年12月
小金井と言うともう一つすぐ頭に浮ぶ人に小金井小次郎がいる。
彼は小金井村の名主の次男で幕末から明治にかけて活躍した侠客である。はじめ他の親分の子分であったが、そのうち新門辰五郎の弟分となり甲州街道方面に勢力を持ち、当時町火消の頭であった辰五郎と一緒に、大名火消と大喧嘩をして有名になった。
辰五郎は入獄し小次郎は三宅島に流されたが共に赦されて侠客として活躍した。
小次郎は三宅島で雨水以外に飲料水がなく苦しんでいた村民の為に井戸を掘るなど、村民の為につくしたので村民からは神の如くあがめられ今でも小金井市と三宅島とは友好都市の契りを結び先年三宅島雄山の大噴火の際は市を挙げて救援活動をしたと言う。
小次郎は晩年小金井神社に狛犬を寄付するなど社会奉仕活動をしていたと言う。
一方小次郎と活動を共にした新門辰五郎は入獄して赦された後は幕府にも出入りし15代将軍徳川慶喜の警備に当っていた。
辰五郎は姓は町田で、新門は通称である。新門と呼ばれるようになったのには次のようなわけがある。
幕末浅草浅草寺の本堂伝法院の近くにたくさんの狸が出没し化けて人をだまして人々を困らせていた。
浅草寺住職がある夜狸が自分達が住む場所を浅草寺境内に作ってくれれば夜出て人を困らせるような事はしないと言う夢を見て、狸の為に伝法院のすぐ近くに鎮護堂を造った。
その話を聞いた当時上野の東叡山寛永寺の境内に住んでいた日光輪王寺門跡の舜仁准后(准后とは仏門に入った高貴な人の称号)が、当時寛永寺と浅草寺は本寺末寺の関係にあった事もあり、家には門がなければと朱色の立派な門を寄贈した。
すると狸はいつの間にかいなくなったと言う。
そこで門にはそれを守る人が居なくてはと言う事になり当時寛永寺で徳川慶喜の警備に当っていた町田辰五郎が選ばれて警備に当る事になった。
そこで辰五郎は“新門”辰五郎と呼ばれる様になり本拠を寛永寺から浅草寺に移して子分を養ったという。
鎮護堂と赤色の門は現在は伝法院の隣にある。
侠客と言えば強きをくじき弱きを助けることをたてまえとする任侠の人で江戸時代の町奴に起源を持つが、多くは賭博喧嘩渡世を事として人生を送ったと言う善悪2つのイメージがあるが、清水の次郎長や新門辰五郎などは良いイメージで講談浪曲等を通じて戦前の国民に親まれていた。
小金井小次郎も新門辰五郎の弟分として活躍し有名になったが具体的には私が今迄書いて来た事よりほかは良くわかっていない。
2017-08-17 09:38:00
榎本良三のエッセイ