私が復員(召集が解除されて、兵役が免除され郷土に帰れるようになること)したのは昭和20年10月1日(1945年)の事であり、その頃アメリカ軍は日本本土に進駐していてアメリカ軍の兵士がジープ(軍用小型車)で日常的に奥多摩街道を往復していたのでアメリカ兵に対し特別な感じは持たなかった。
ただ、その後昭和30年-昭和32年(1955-1957)の砂川闘争により米軍が立川基地の拡張を断念し、東京周辺の空軍基地が横田基地に集約されるようになってからは、昭島市拝島町の自宅が基地から2キロ位の距離にあるので、常に横田基地の事は頭にあった。
横田基地の入り口 昭和60年(1985年)
妻の話では終戦近くには本土決戦を叫んでいた軍部は米軍が上陸すれば婦女子は暴行されるから山へ逃げろなどと言っていた様だが実際に進駐して見ると軍紀は厳正であり、昭和20年代を通じて特に目立った事件はなかった。おぼえているのは昭和25年頃日吉神社のお祭りの時、道を歩いていると、後から来たジープが速度をゆるめて私に近づいて来て車の窓から手を出して私が持っていた
お祭り提灯を横取りすると走りさって行った事件くらいであった。しかしそれは見たこともない提灯に興味があって面白半分にやった事であり別に悪意があったとは思えない。ただし奥多摩街道をはさんで北側の農家には、日本人の女性が部屋を借りており、アメリカ軍の兵士が毎日の様に通って来ていた。又立川基地や横田基地周辺には米兵のまわりに多くの日本女性が集っていると聞いていた。
当時アメリカ兵一人を相手にしている女性をオンリー、そうでない女性をバタフライと呼んでいた。私は英語は忘れてしまったがオンリーはオンリーワン、のオンリーであり、バタフライとは、つまり蝶の様に花から花へ蜜を求めて歩く虫の様に、不特定のアメリカ兵と交際して生活の糧を得ている女性ではないかと想像していた。その後蔑称としてパンパンなどと呼ばれたが、そんな女性たちも昭和20年代の終りにはいなくなり、昭和31年初めには経済企画庁の発行した経済白書でもう戦後ではない、などと宣言されていた。
対外的にはその頃(昭和40年-45年)(1965-1970年)ベトナム戦争が始っていた。ベトナムは越南と称して面積36平方キロ人口8000万の国であったが1833年以降フランス領となっていたものをホーチミンを中心とするベトナム民族解放戦線がフランス軍と戦ってこれを追放し、ベトナム社会主義共和国を成立させた。しかしアメリカはこれに不満で南部にベトナム共和国を成立させ南ベトナムでホーチミンの軍と戦った。
その頃今日は飛行機がたくさん飛んでウルサイなど思った時は必ず翌日の新聞に米軍機がベトナムを爆撃した記事が小さくでていたのが今でも記憶に残っている。この戦争は1973年にアメリカ軍が南ベトナムから撤兵し南ベトナム共和国は崩壊し南北ベトナムは統一してベトナム社会主義共和国となりベトナム戦争は終った。
それと前後して岸内閣(首相岸信介氏は安倍首相の岳父に当る)の日米安全保障条約の改定交渉に対し、これに反対するいわゆる安保闘争が行われ、とりわけ1956-1960年(昭和34年-昭和35年)には連日数万人がデモ行進し国会を包囲したが結局条約は改定された。また1970年にも延長をめぐって反対運動が大きな規模で行われた。
この間横田基地の周辺でも安保反対・軍事基地反対の運動が行われた。丁度米ソの冷戦は時代でもあり私もこの運動に関心を持っていたので、何回か横田基地の周辺や拝島駅の北側の基地との境の所で仮設の舞台を造って反対集会の外、歌や踊りをやっている所へ行って見た。
この運動の後は横田基地では一人一人が手を繋いで基地全体を包囲して基地反対・安保反対を叫ぶ闘争が行われた。私は闘争には直接参加しなかったがみんなで手を繋ないでいる写真や反対集会の写真を何枚か写した。
国際反戦デーの横田基地前 平成2年(1990)10月21日 福生市
横田基地を囲む平和の輪 平成2年10月21日 福生市
その後いつ始まったかは明らかでないが昭和40年頃から9月の初めに日米平和友好祭が始った。私が行ったのは昭和50年代の終りと平成の初めにかけて2回位であったが、基地の正面玄関入口の国道16号の反対側にはアメリカ人向きの商店がずらりとならびアメリカ人だけでなく日本人もその商店に買物に来ている様だった。
入口を入ると友好祭ではアメリカの飛行機が公開され梯子を登って内部まですっかり見ることが出来た。又その周囲には基地に関係ある人が出していると思われる露店がずらりと並んでアメリカの御菓子や衣類などを売っていた。またアメリカ人の踊りや集会所のような建物の中では音楽などもやっていた。私は、飛行機は日常見なれているのでそれほど興味はなかったが、露店が珍しく丁度子供のころの縁日の露店を思いだしてTシャツ1枚とアメリカのお菓子をたくさん買いこんでとても嬉しかった。ところが家に帰ってお菓子を食べて見ると思ったより大味でおいしくなくてがっかりした事をよく覚えている。私は世界の文明国アメリカのお菓子は絶対おいしいものと思いこんでいたのである。
話は変るが福生市にある米軍基地をどうして横田基地と呼ぶのかそれには二つの説がある。一つは福生と言う名前は知らない人には呼びにくく日本人でもフクセイとかフクショウとか呼んでしまうので、まして外人には発音しにくい。
横田基地日米友好祭 平成5年9月(1991年) 福生市
基地の北端にある武蔵村山市横田の名前で呼ばれる様になったと言う。もう一つの説は終戦の少し前当時立川にあった陸軍飛行5連隊の資材置場から発展して陸軍航空審査部や陸軍少年飛行兵学校の飛行場があったこの土地を占領後の航空基地にしようと決めていた米軍が飛行機の上からその地図を見ると横田基地あたりには横田の地名しか見当らなかったのでその名を付けたと言う。いずれにしても当らずと言えども遠からずであろう。そして現在も日米安保条約に基く日本の首都東京を防衛する要として重要な役割を果している。
福生市は江戸時代、青梅街道や五日市街道の宿場でもなく、後北条氏の文書に始めて福生の名前が見えるのは1561年(関ヶ原の合戦は1600年)の小さな村であったが、戦後隣村の熊川村と合併して福生市となり、明治23年青梅市宮の平で採掘された石灰石を建築材料として東京へ運ぶ為に建設された青梅線の駅であった。戦後ローカル線であった青梅線沿線が東京のベッドタウンとし発展したので、青梅線もローカル線から通勤線へと発展し福生市も大きな街になった。
2017-09-20 09:46:00
榎本良三のエッセイ