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原子爆弾と私の間接的な関り

原子爆弾と私の間接的な関り

 平成28年5月27日アメリカのオバマ大統領は伊勢志摩で行われた先進国首脳会議を終えて広島を訪問した。
 太平洋戦争が終ってから70年も経ったとはいえ太平洋戦争の敵国で1945年(昭和20年)8月6日広島に、9日長崎に原子爆弾を投下し合計60万人以上の人々を殺し、ほかに今なお原爆症に苦しんでいる人も多くいることに私は深い憤りを覚えているが、アメリカの大統領が謝罪はしなかったものの原爆慰霊碑に祈りをささげ原爆資料館を見学しその際将来の核廃絶への決意を述べた事には一定の評価をしている。
 太平洋戦争の終結の年昭和20年(1945年)私は前年現役兵として入隊しソ満国境(中・ロ国境)の山神府に居たが、沖縄失陥にともない次は米軍が九州に来るだろうとの軍の見通しにより私達野砲兵57連隊は4月博多に上陸し、博多湾の防衛に当っていた。
 終戦の詔勅は博多の山の中で聞いた。内容はラジオの雑音が多くてよく解らなかったが、その中に残虐な爆弾云々と言う言葉があったのは解った。戦争が終ってからそれが原子爆弾であることを知った。
 そういうわけで私は直接には原爆とはかかわりはなかったが間接的には若干のかかわりがあった。今その事を少し書いてみたいと思う。
 昭和19年3月1日(1944年)私が現役兵として入隊した東部第12部隊世田谷の砲兵隊はその日の夜間貨物列車に乗って、今忠犬ハチ公の像が立っている渋谷駅を中国大陸に向って出発した。部隊を乗せた列車は東海道線・山陽線を通って博多まで行き、そこから輸送船で大連まで行き、大連で公会堂の様な所で一泊して南満州鉄道に一書夜位乗ってハルピン郊外ソンジャンにある世田谷砲兵隊の現地駐屯地に到着した。
 その駐屯地の近くの北満の原野で毎日訓練に励んでいたが、わずか2ヶ月位で部隊に出動命令が下り、部隊は南方に出動した。私はたまたま初年兵であり、幹部候補生を志願していたので訓練中と言う理由で残され、ハルピンから少しロシヤに近い町チチハルにある部隊に転属を命ぜられた。
 戦後私が聞いた噂ではそのとき出動した部隊はテニアン島の守備に当り、米軍と激戦のすえ全員が玉砕(全滅)したと言われていたが、それ以上はよく解らなかった。最近になって新聞その他で状況が少しずつ解るようになった。
 テニアン島は西太平洋のマリアナ諸島中の小島で、サイパン、グアムを含むむ15島の中の一つである。元ドイツ領で第一次世界大戦の結果日本の委任統治領となり南洋諸島と呼ばれていた。テニアン島はサイパン島の南7.5キロの所にあり、元は無人島であったが日本の委任統治時代に国営会社の南洋開発により開発が進み、日本から多くの移民が来て砂糖黍や熱帯の果物を作っていた。日本軍はこの島の北部に飛行場を建設したが、太平洋戦争中はこの島々は重要な軍事拠点となり、激戦の上この島を占領したアメリカ軍は日本軍が建設した飛行場を拡張整備し、このテニアン島から原子爆弾を積んだ爆撃機「エラノゲイ」が出発し、広島にウラニウム型、長崎にプルトニウム型の2発の原爆を投下した。ただ爆弾が重いため搭載するのに相当苦労したと言われている。
 もしも部隊が出動した時、訓練中の為残されなかったら私の命はなかったと思うと慄然とすると同時に、短い間ではあったが一緒に北満の原野で訓練にはげんだ人達が全滅した事を思うと暗然とした気持になる。そして戦友達が玉砕した島が、「エラノゲイ」が広島長崎へ出発した島だったと思うと何か不思議な因縁の様なものを感ずる時がある。
 今回(5月27日)の広島訪問でオバマ大統領は原爆資料館に自分で作った4羽の折鶴を残したと言われる。私も先週ホームの中の音楽(カラオケ)の日に千葉紘子の「折鶴」と藤山一郎の「長崎の鐘」を原爆被爆者とテニアン島で玉砕した戦友への祈りをこめて歌った。
 アメリカでは原爆投下が日本の降伏を早め、本土決戦を叫ぶ日本軍部との戦いから多くの兵士の命を救った止むをえない行為であったとする意見が今尚有力の様だ。たしかに原爆投下とソビエト(ロシヤ)の参戦が日本の降伏を早めた事は事実だが、原爆と言う残酷な兵器を使用した事は国際法上・道徳上の問題であり両者を単純に比較することは適当ではないと思う。
 ただ、太平洋戦争は先に攻撃したのは日本の側であり、昭和6年以降15年にわたる日本の大陸進出は色々良い事もしたが基本的には中国への侵略であった事は深く心に留めて置かなければならない。

2017-12-04 09:54:00

榎本良三のエッセイ