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昭和飛行機の創立と昭島市街の形成、山本五十六連合艦隊司令長官の貢献にふれて

昭和飛行機の創立と昭島市街の形成、山本五十六連合艦隊司令長官の貢献にふれて

榎本良三

昭和11年2月26日大雪の日に起った陸海軍青年将校による一種の軍事クーデター、二・二六事件で、軍部に批判的だった高橋是清大蔵大臣や鈴木貫太郎内大臣、岡田首相と間違えられて殺された義弟の松尾大佐をはじめ多くの重臣が殺されたり重傷を負ったりした。青年将校達のクーデターは成功したかに見えたがその指導者達は腐敗堕落した政党政治を打破して天皇親政の政治を実現すると言うだけで革命の具体的な計画を持っていなかったので、側近を殺された天皇の怒りをまねき結局天皇の鎮圧命令が出された。クーデターは鎮圧され指導者の一部は自決(自殺)したが残りの大部分は軍事裁判の結果全員が処刑され、命令によってクーデターに加わった兵は満州(中国東北部)等の海外へ追放された。しかしクーデターを起した背景には、青年将校たちが新しく入隊した兵士たちの家庭の貧しさを強く感じ、腐敗堕落した政党政治を倒せば皆がよりよい生活の出来る世の中になるという思いがあったと言われる。
昭和6年の満州事変以来、旧憲法には内閣総理大臣に軍の指揮権がなく、天皇に軍の指揮権があると言う旧憲法の欠陥を利用して統帥権の独立を主張していた軍首脳部は、このクーデターを利用して陸軍大臣の現役制を創設して軍部の独裁体制を確立し翌12年には北京郊外の盧溝橋事件をきっかけとして中国本土への侵略を開始したが、軍部の予想に反して蒋介石・毛沢東のいわゆる国共合作による中国軍の英雄的な抗戦にあってこれを降伏させる事は出来ず、中国軍を支援する米英仏の欧米先進国の支援路をたとうとして仏領インドシナ(今日のラオス・カンボジア・マレーシア)に進駐したのを始めとして次第に深入りしついに昭和16年12月8日の日米開戦に至った事は皆様御存知の通りである。
軍部、特に陸軍による独裁体制と国家総動員体制の確立した昭和12年頃の日本では三井・三菱・住友・安田の四大財閥が日本経済を支配していた。そのうちの三菱財閥は創始者の岩崎彌太郎の時から政治と結びつきが強く軍事兵器を生産していたが、その後三菱重工業を中心として兵器・爆薬をはじめ航空機も生産し、有名な堀越二郎の零戦をはじめ各種の航空機も生産していた。これに対して三井は三井物産・三井銀行・王子製紙・三井鉱山などどちらかと言えば平和産業が多かった。
その為軍部からは三井は国策(戦争)に対して協力的でないといろいろ言われていた。そこで三井では、この様な批難に答えるため当時新しい民間航空会社の設立を提唱していた二人の技術者の構想を取り入れる形で、三井の総力をあげて航空機の生産に乗り出す事になった。然し当時はまだ民間航空が未発達の為、製造する航空機の大部分は陸軍か海軍に買ってもらうより外はなかった。まず、陸軍に打診したが色よい返事をもらえなかったので海軍に打診した所、好意的な返事をもらった。そこで昭和12年春、昭和飛行機株式会社の設立準備委員長となり後に初代社長を努めた牧田環氏(前三井鉱山会長工学博士)は専務に予定されていた航空技術者をともなって山本五十六海軍次官を訪ねた。
山本五十六氏は大和・武蔵のような大艦巨砲による海上の撃ち合いを中心とする海軍の伝統的な海戦手法に対して航空戦力の重視を主張する革新的意見の持ち主であった。 牧田環氏の新会社の製造する航空機購入の要請に対し、山本五十六次官はこれを快諾するとともに腹心の海軍航空本部の和田操大佐を紹介した。和田操大佐は前年すでにアメリカのダクラス社を視察しダクラスDC三型輸送機の製造とダクラスDC四型輸送機の開発現場を視察し、海軍における輸送機部門の遅れを痛感していたので、その日本に於ける製造権を取得し状況をつぶさに山本五十六次官にも報告していた。そこで牧田社長と和田大佐は協議の結果アメリカからの技術導入によってダクラスDC三型輸送機を製造することが決った。
そこで三井では昭和12年夏、正式に昭和飛行機工業株式会社を設立し、初代社長に牧田環氏が就任した。当時は朝日新聞社の飯沼飛行士らによる訪欧飛行が成功したこともあって航空熱が高く、売り出した株の半分は三井関係の資産家が引受け残り半分を一般に売り出したが応募率は10倍にのぼったと言う。
新しい航空会社の敷地については牧田社長が製造工場と共に製造した飛行機の飛行実験が出来る滑走路の建設可能な広い敷地を希望したので、神奈川県座間附近、日野市南方等いろいろな場所が候補に挙ったが最終的に現昭島市の青梅線北側の55万坪の広大な敷地に決定した。買収は三井信託が当ったが信託では大神村の中林半佐衛門方に事務所を置き半年で敷地の買収を完了した。そしてその敷地には飛行機製造工場と滑走路が作られた。又アメリカからはダクラス社から二人の技術者が指導のため来日し、又今迄日本になかったような1000トン、1500トン、2000トンのプレス機械が輸入された。
この様に敷地が現昭島市に決ったのは色々の事情が考えられるが一つには三井家の別荘が拝島村にあり買収地域の大地主であった拝島村和田清秋村長と密接な関係にあり、昭和町の伊藤英彦、立川市の岩崎貴重等の大地主も買収に好意的だった事があげられている。そして昭和15年には3日に1機、16年には2日に1機、そして17年には1日1機の当初の目標を達成し終戦までに他の委託された航空機を含め約700機が製造され海軍の軍事輸送に使用されたが、使用中飛行機の墜落事故等は一件もなかったと言われている。昭和13年には中神地区の北側に名古屋工廠と呼ばれ名古屋にあった陸軍航空工廠が移転して来た。この工廠はあらゆる航空部品を製造する陸軍直管の部品工場であった。そしてこの二つの工場を中心として青梅線沿線は軍事工場地帯となり昭和飛行機株式会社の請願により昭和前駅(現昭島駅)が、陸軍の命令によって東中神駅が作られた。

元昭和飛行機(株)飛行場上空付近を飛ぶ飛行機
元昭和飛行機(株)飛行場上空付近を飛ぶ飛行機

 

又二つの軍需工場で働くために全国から徴用された工員達の宿舎が作られた。拝島村では堀向住宅、 昭和町では上ノ原住宅、中神住宅、八清住宅等が作られほとんど開発されていなかった青梅線の沿線に多くの社宅が作られ現在の昭島市の原型が形成された。中 でもアメリカから帰国したばかりの青年技術者八日市屋清太郎が設計した地区は中央の広場を中心にして放射線上に道路が作られ集会場や映画館等も備えた進歩 的な設計であったのでこの地区の事を彼の名前を取って八清地区と呼ばれている。昭和29年昭和町と拝島村が合併して昭島市が誕生したときこの事を報じた新 聞は記事の下に昭島市の中心八清商店街の写真を一斉に掲げた。
昭和20年8月15日日本の降伏、米軍の占領によって占領軍総司令部の命令により 航空機の製造は禁止され多摩にあった富士飛行機、立川飛行機、昭和飛行機等の技術者達は自動車産業に転身し多摩自動車、プリンス自動車を経て日産と合併し て日産プリンスとなり、日産自動車の主力車種の一つとして活躍した。

旧飛行場跡地に完成した道路 平成13年4月28日撮影
旧飛行場跡地に完成した道路 平成13年4月28日撮影

 

一方ダクラスDC三型の製造が軌道に乗るまでずっとあたたかく見守ってくれた山本海軍次官は米内光政海軍大臣、井上成美軍務局長と共に海軍の左派三羽烏と言われ、平和主義者であったかどうかはわからないがいずれも大使官付武官の経験があり当時の日本の軍事力・経済力のアメリカとの差を知りつくしていたので、軍人としての立場からアメリカやイギリスと戦争をしても勝目がないことを知りつくしていた。三人は近衛内閣で協力して極力戦争をさける様主張したが陸軍の反対で近衛内閣が瓦解したため志は果せず、米内海軍大臣と山本五十六海軍次官も辞任し東條内閣が成立しこの内閣の下、御前会議で対米開戦の方針が決定された。その少し前、山本五十六大将は連合艦隊司令長官に任命された。この就任は順当な人事とも言えるが一部には極右勢力からの襲撃をさけるためとも言われた。
連合艦隊司令長官となった彼は戦争が避けられなくなった以上軍事力、経済力に優る(当時はGDPの差は10対1と言われていた)アメリカに対応するには先制攻撃以外にはないと考え綿密な計画を立て12月8日の開戦の日を迎えたのである。このハワイ真珠湾への先制攻撃が成功した時国民は日露戦争でロシアのバルチック艦隊を潰滅させ日露戦争を勝利に導いた東郷平八郎連合艦隊司令長官を思い浮べて日米の太平洋戦争は海の戦争であるから連合艦隊司令長官こそが戦争の最高司令官と思い全国民が拍手喝采したのである。然しアメリカの太平洋艦隊の航空母艦は攻撃されたハワイ真珠湾の外におり無事だった。
それからの一年後早期決戦を急ぐ山本長官はミッドウェイ島の攻撃を企て連合艦隊の主力をもって攻撃したがこの時はすでにアメリカの優れた電波兵器によって日本海軍の暗号はことごとく解読され逆にアメリカ海軍に先制攻撃され日本の連合艦隊は主力空母4隻を失い大きな敗北を喫したのである。又同時に訓練された多くの航空部隊の兵員も失われた。この海戦によってアメリカ海軍と日本海軍との優位は逆転しアメリカの太平洋戦争での優位は決定的となった。アメリカではこの海戦に勝利したニミッツ提督は太平洋戦争の英雄としてたたえられている。国民は知らなかったが山本長官は以降危険な前線視察等を積極的に行うようになった。最後にソロモン沖で視察中長官が同乗した航空機が米軍機に探知され長官機は撃墜されて長官は戦死した。恐らく太平洋戦争の日本軍の敗北を自覚した覚悟の死であったろう。
話は別だが戦争中、国家総動員法により科学者技術者も戦争研究に動員され後に日本で初めてノーベル賞を受けた湯川秀樹博士、共同研究者であった武谷三男博士らは原爆研究に、湯川博士についで二番目にノーベル賞を受けた朝永振一郎博士らは電波武器の研究に従事したが圧倒的な経済力、技術力の差はいかんともしがたかった。又日本で平和的な原子核物理学の研究装置として理化学研究所で仁科芳雄博士らによって建設運用されていたサイクロントロンは昭和23年アメリカ占領軍によって破壊された。その事実は後にアメリカ占領軍の蛮行として世界中の物理学者から非難される事になる。

2015-11-19 14:59:00

榎本良三のエッセイ