私の家は多摩川から600メートル位離れた段丘の上にあった。武蔵野台地が多摩川と接触する所は青柳段丘・立川段丘・拝島段丘と言う3つの段丘すなわち崖となって多摩川に接していた。だから私の家は拝島段丘の崖の上にあり崖の下は田園になっておりそこに灌漑用(田畑に水を引いて米を作りやすくするため)の3つの川が流れていたその先が多摩川堤防であった。
多摩川展望 昭和13年(1938年) 昭島市
その3つの川は下の川、立川堀、新田堀と言い、いずれも多摩川と支流秋川の合流点で水をせきとめる七ヶ村堰から引水したものであった。
立川堀 昭和27年(1952年)
多摩川の水も上流羽村市の羽村の堰で多摩川のを堰止め江戸の飲料水として玉川上水を造ったので、拝島附近では水量はそれ程多くはなかった。私達が子供の時は多摩川やその手前の3つの川、さらにその川から灌漑用にとる田園の水の取入口などで、鮎やハヤ(ウグイ)、鮒、鰻などを一年中捕っていた。
今の子供達が公園で遊んでいると周辺の人からうるさいとすぐ苦情が出るのと比較すると幸せな日々であった。ただ釣に行っても子供だから魚法は簡単で、田園の間を流れる小川では雨で水の濁った日に釣竿の先に釣糸をつけその先にみみずをつけて釣糸を流すと義蜂(ギバチ:ナマズに似ている小魚)やコトウが良く釣れた。
多摩川ではいろいろ釣りかたがあるが、あまり難しい釣りかたは出来ないので、釣糸の先に川虫(カゲロウの幼虫)をつけて釣竿を川の流れにそって動かすだけの簡単な釣り方「あんま釣り」が多かった。
あんま釣り 平成2年8月(1990年)
この釣り方では多摩川名産で香魚と言われた鮎はほとんど釣れなかったがハヤ(ウグイ)は良く釣れた。ごくたまに鮎がつれると飛上る程の嬉しさであった。
鮎を釣る為には釣竿の長いものに釣具店で売っている針をつけてする瀬釣りと言う方法があるが本格的な釣竿は長く重いので小供には旨く操作出来なかった。
投網と言って網をかぶせて上部に手網をつけて川へ投網を打って魚を捕える方法もあったがそれも網が重くて子供には出来なかったので多摩川で鮎をつかまえる事は小供には高根の花だった。
鮎釣りの解禁 昭和58年(1983年) 昭島市多摩川
ただ時々家に鮎を売りに来たので鮎の塩焼はいつでも食べる事が出来た。
そのおいしかった事は数十年経った今でも記憶に残っている。
田園の東の方に安藤養魚場と言う大きな池を3つ位持ちそこで鮎を養殖して、銀座にもっている店へ出荷していた養魚場があった。昔の三等郵便局では一年に一度郵便局の会計に不正はないか監査する郵政監察官と言う役人がいた。三等郵便局長だった父は監査が無事終って不正がない事がはっきりしてから来局した監察官をよく養魚場につれて行った。そこで鮎を釣って塩焼にして食べたが私も一緒に連れて行ってもらった事が2、3回あった。然し不思議なもので、うずを巻く程一杯に池に鮎がいても良く釣れる時とほとんど釣れない時とあった。水温の関係か餌を與える時間の関係かそれとも気候の関係かよく解らないが、小供心にも不思議なものだなあと思った事を今でもはっきり覚えている。養魚場の息子さんとは友達だったが息子さんは養魚場の経営に興味がなかったらしく後を継がなかったので一代限りで養魚場はなくなり、銀座の店もなくなってしまった。今あれば村の観光名所になっていたのではないかと思っている。
鰻については子供の頃私の隣りの本家にお婿さんに来た妻の叔父さんと一緒に多摩川へ夕方行って両側に重しをつけた太く長い紐を川の中に沈めて途中に付けられた多くの紐の先に針とえさを付けたものを沈めて家に帰った翌朝行ってその仕掛けを揚げて見ると多くの鰻がかかっているのが常だった。中にもう逃げられないと思ったのか首をぐるぐる巻きにして死んでる鰻もいて可愛そうな気もしたが生きて針にかかった鰻もたくさんいた。それを家に持って帰ってバケツに入れて置くと大きい鰻がとれた時は近所の人がそれを大勢見に来た。またある時立川堀にそれを仕掛けた時多摩川とちがって川辺がせまいので何かに引掛って揚がらなかったので強く引揚ると反動で川の中へ転落して学校の制服がびしょぬれになってしまった事があった。
多摩川の夕暮れ 昭和56年5月
鮒を捕るのは釣るよりも立川堀や新田堀から水を引いた田園の取入口の所にいるのを竹のついた網で捕ったり手で掴んで捕った時が多かった。家は奥多摩街道に面していて街道の両側には玉川上水から分水した生活用水が流れていたのでそこへ生簀を造ってその中で飼っていたりした。
多摩川もだんだん下流に堰が出来たため鮎が遡上しなくなり、漁業組合で琵琶湖から鮎の幼魚を買って来て放流するようになったが、多摩川には川鵜がたくさんいて幼魚を食べてしまうので、それほど鮎は増えなかった。川鵜は上野の不忍池から飛んで来ると言われ私も川鵜が下の川から魚をくわえて多摩川の方へ飛んで行くのを見た。村の人は皆上野の不忍池を恨んでいた。
夏になると下の川にはホタルがたくさん飛んでいたががき大将の人から草むらに光っているホタルを捕えようとするとマムシの目を間違えることが有るから注意するよう言われていた。多摩川堤防の手前には空にはトンビがくるくる廻っていた。堤防にはイタドリがたくさん生えていて河原には秋になると河原なでしこや月見草が咲き乱れていた。河原撫子は白、月見草は黄色い花である。
浅川と多摩川は日野付近で合流し、また多摩の交通の中心である立川では明治20年代から昭和14年迄多摩川に屋形船を浮べて鵜飼のやり方で鮎を捕獲し船中で料理して宴会を開き芸者さんを呼んで歌や踊りを大勢で楽しんでいた。
2017-12-20 10:03:00
榎本良三のエッセイ