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造り酒屋の事  戦前のお金持の事など

造り酒屋の事  戦前のお金持の事など

 私は若い時は日本酒を飲んでいた。しかし、結婚しても青年団に入っていて、お祭りの日にお酒を飲みすぎて玄関へ倒れ込んでしまったり、またお酒が身体に合わなかったのか、日本酒を飲むと二日酔で頭が痛くなる事が多く、父から良三はもう結婚したのだから青年団は抜けるよう言われた。私は青年団を辞め、同時に日本酒も止めて、ビール党に転向した。以来、仕事上の打ち合わせ会の後の小宴会などではずっとビールを飲み続けている。でも日本酒をおいしそうに飲んでいる人を見るとちょっとうらやましい様な気がする。
 私がホームの食堂で知り合ったOさんは同じ歳の93歳だが、今でも毎晩一合の寝酒はかかさないようだ。「酒は百薬の長」と言われているがOさんものむと夜よく眠れるようだ。しかし、日本酒は飲まなくなっても多摩の名酒の酒造り(醸造業)の名前はおぼえている。私の知っているのは「沢の井」を造っている元禄2年(1702)創業の小澤酒造(青梅市沢井)、「嘉泉」を造っている文成2年(1822)創業の田村酒造(福生市福生)、そして「多摩自慢」を製造している文久2年(1863)創業の石川酒造(福生市熊川)である。

玉川上水熊川分水 昭和62年3月 (1987) 福生市
玉川上水熊川分水 昭和62年3月 (1987) 福生市

 

 この水を石川酒造の工場に引き入れ、酒づくりの一部の工程で使っていた。

戦前のお金持と言えば都会では三井・三菱・住友・安田などの「財閥」で、農村で多くの小作人を持ち、多額の小作料を受取っていた「大地主」や、山林をたくさん持っていた「山持ち」、水と麹(こうじ)で醸造した日本特有のアルコール飲料である日本酒を造る「造り酒屋」であった。
 1945年に日本に進駐して来たアメリカ占領軍は日本の武装解除と民主化のために色々な改革を行ったが、その主なものは次の通りである。第一が主権在民の第9条の非武装条項を持つ新憲法の制定、第2が経済民主化のための財閥解体、第3が小作人に土地を与え大地主を無くする農地改革である。ただし天皇は主権在民の新憲法でも象徴として残った。それは日本が降伏をきめたポツダム宣言を受諾するに当り、天皇制の存続を条件とし、連合国がそれを受諾したからである。
 戦前、都会では三井・三菱・住友・安田等の一族、同族が支配する多角的事業経営体は財閥と呼ばれ、「金持ち」と同義語であった。戦後、主権在民の新憲法の制定がアメリカ軍の主導の下に行われ、当時占領軍のスタッフとして来日したルーズベルト大統領のニューディール左派と言われる人々の多くの助言があったと言われるが、日本国民の多くがこれを歓迎したことも事実である。財閥については、占領軍総司令部の司令により一つ一つの独立した企業に解体され、経営の自由化・自由競争の促進がはかられた。ただし、三井物産・三菱重工業・住友商事・安田信託などは名前が企業として定着していたので、各企業は名前を変更せず、名義料を旧財閥本家に払っていたようである。私の住んでいた拝島村(昭島市拝島町)には三井家の当主三井八郎右衛門氏の別荘があった。あるとき、当時の財界総理(今の経団連会長)に当る王子製紙社長・藤原銀次郎氏が、別荘滞在中の三井氏に御機嫌うかがいに来たと言う話を聞いて、「あゝ三井さんてそんなに偉いのかなあ」と子供心に思ったのが強く印象に残っている。
 その後別荘には、村人があまり三井家に要求ばかりするのがうるさいとか言って、たまにしか来なくなり、最終的に別荘は、空襲を逃れて移転して来た学校法人啓明学園に寄付された。

啓明学園の牧場 昭和29年(1954) 昭島市
啓明学園の牧場 昭和29年(1954) 昭島市

 

また、農地解放令により農地は一段(いったん:300坪)500円などと言うただのような値段で小作人に分配され、大地主は居なくなり、農地を分配された小作人は皆、小地主となり、新しい自宅を新築した。占領から独立後、これに対して旧地主は不満で、集団で裁判を起したが、結局敗訴した。
 大山持ちはそのまま残っていたが、戦後安い建築用外材が大量に輸入されたため、山から木を伐りだして売っても採算が合わなくなり、山持ちは大金持とは言われなくなった。

啓明学園構内 昭和57年12月 (1982)昭島市拝島町
啓明学園構内 昭和57年12月 (1982)昭島市拝島町

 

 そして最後に残ったのが水と麹で日本酒を造っている伝統の造り酒屋である。
戦前から昭和の初めまで、多摩川は玉のようにすきとおった川と言われており、アメリカの学者によれば世界第2の透明度がある川であった。
昔はその透明な水を使って、多摩川の玉川上水よりに3つの造り酒屋はつくられており、おいしい日本酒が作られたらしい。
 私は偶然にも3つの造り酒屋の御当主と短い期間であったが面識があり(といっても50-60年前の話だが)小澤さんとは、兼任が許されていた時代の局長仲間、田村さんとは旧制中学時代(現・立川高校)の同級生、石川さんとは写真好きの仲間だった。従って造り酒屋の工場の内部も見せて頂いたが、私の見た時はすでに機械化されていた。
 私はこれらの造り酒屋がこれからも伝統を守って永く繁栄することを心から祈っている。

沢乃井 ままごとやのさるすべり 平成12年8月(2000) 御嶽渓谷沢井
沢乃井 ままごとやのさるすべり 平成12年8月(2000) 御嶽渓谷沢井

2018-01-18 10:08:00

榎本良三のエッセイ