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郵便の配達と武蔵村山市の事など

郵便の配達と武蔵村山市の事など

私が局長をしていた拝島郵便局のある場所は東京都北多摩郡拝島村で、昭和29年(1952)に北多摩郡昭和町と拝島村が合併して昭島市(市名は昭和の昭と拝島の島を一つずつとって新市名としたもの)が誕生した。当時旧昭和町は立川郵便局と拝島郵便局が半分ずつ配達していたため、合併の結果、同じ市を二つに分けて配達することになり、市役所から出した郵便物が同じ日に配達されない、など色々不便な事が多くなり、不満も出て来た。そこで私は大局的見地から、自分が局長をしている局が小さくなるのはさみしいけれども、その気持を押えて新昭島市の集配区を一本化し、中央に新しい昭島郵便局を造るよう上局の東京郵政局長に陳情書を提出するよう、昭島市長さんに提案した。私も市長さんと同行して、市長名の陳情書を東京郵政局郵務部長に提出し、それが認められて昭和40年12月に昭島郵便局が誕生した。同時に拝島郵便局の集配事務は廃止され、拝島局は30数名の局から、定員5名の特定郵便局になった。

拝島郵便局 昭島市拝島町
拝島郵便局 昭島市拝島町

 

これに先立って、電話については全国的な電話自動化の進展に伴い、電話の交換手さんが手動で加入者と加入者の間をつないでいた電話交換事務が廃止され、交換手さん達は立川電話局の電話番号案内事務等に配置換になり、昭和37年に拝島局の電話業務は廃止された。
 
交換手さんがいた時、交換手さんと加入者のお客さんが喧嘩になり、おさまりがつかなくて局長の自宅に電話をつないで来たので、私が電話に出てとりなしたが話がつかず、加入者のお客さんが局長の自宅へ怒鳴り込んで来て、土足で私が食事をしているところへ乗込んで来た事があった。

電話交換室にて 昭和31年(1956年)
電話交換室にて 昭和31年(1956年)

 

然し私が色々と交換手の応待について陳謝したり、説明したりすると、最後には納得して帰った。帰るときは、最初自宅へ土足で乗込んだ時程の勢いではなかったので、今ではむしろ懐しい思い出である。やはり拝島がそれだけ田舎だったからであろう。
昭和30年頃までは拝島局では現昭島市の半分のほか、武蔵村山市などを配達していた。当時北多摩郡村山村と言ったが、私の局が開局して以来の関係であるので、幼い頃父や古くから勤務していた郵便配達の人から、色々村山の話を聞いていた。今の村山市中藤・三つ木横田、陸軍少年飛行兵学校のあった大南などの話は何度も聞いたが、ただ一つ幼い心に不思議に思ったのは、朝配達に出て夕方帰ってくるのに、今のようにスーパーもコンビニもないのに一度もお弁当を持って行くのを見た事がない事だった。よく聞いてみると、親しくなって毎日昼食を出してくれる農家があり、そこへ寄って昼食をただで食べていたという。配達する一日の枚数も少なかったが、それだけのどかな時代であったと思う。

大晦日の夜の年賀郵便の組み立て 昭和28年(1953) 昭島市拝島町
大晦日の夜の年賀郵便の組み立て 昭和28年(1953) 昭島市拝島町

 

また、主事といって配達のトップにいた人が、多摩川の鮎漁の時知りあった女性にほれこんでしまい、どうしても結婚すると言い出した。郵便配達をして
いる地味な人と、料亭や居酒屋の派手な人とは生活がちがうので、合わないだろうと周囲は皆止めたが、がんとして聞かず結婚した。予想通り二人は3,4年で離婚した。その後数年経ってから、二人子供がある戦争未亡人と知りあい、再婚した。今度はうまく行き、未亡人が住んでいた拝島駅前の松原町の家に一緒に住み、晩年は松原地区の自治会長に選ばれて若い時に飲まなかったお酒も飲むようになり、80何才かの天寿を全うした。未亡人も夫の為によく尽くししあわせな生涯であったそうだ。
話は変るが、私の幼い頃から玉川上水の羽村取入口の100メートルくらい下流にある大きな水道の取入口から、玉川上水の約7割の水は水道管で直接、武蔵村山市の村山貯水池に送られていた。村山貯水池は上池と下池があり上池は大正15年(1926年)下池は昭和2年に完成していた。村山貯水池からは水は淀橋浄水場に送られて薬品で浄化されて東京都内の水道に給水されたという。

村山貯水池 昭和11年(1936年)
村山貯水池 昭和11年(1936年)

 

私が村山貯水池に行った時には春だったが、貯水池の土手を登ってみると、丁度お祭りだったらしく、桜の下で大勢の女性が踊っていた。私は土手づたいに貯水池の周りを一周して家に帰った事を記憶している。
玉川上水は承應2-3年(1653-4年)に玉川兄弟よって開通したが、明治34年(1901年)に廃止されている。
それについて私は今も玉川上水の水を使用して上水が流れているのに、廃止とはどういう理由かわからず、不審に思い、村山市歴史資料館に問い合せたところ、それは上水の水をそのまま飲料水として飲む事を廃止したのであって、現在はその水を薬品で濾過して飲んでいるので、ただそれだけの違いであると言うだけでそれ以上の回答は得られなかった。

2018-02-21 10:16:00

榎本良三のエッセイ