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我が家の菩提寺龍津寺と拝島の町

我が家の菩提寺龍津寺と拝島の町

我が家の裏は榎本家の菩提寺龍津寺の竹藪と接しており、こどもの頃から広い境内でよく遊んでいた。お墓も近いので、盆暮れをはじめ、いつでもお墓参りが出来、大変便利であった。我が家も龍津寺も関東平野が段丘となって多摩川に接する崖の上にあった。寺がある拝島村(現昭島市拝島町)は、玉川上水が完成したと同じ承応3年に、八王子千人同心が槍奉行から日光東照宮の火の番を命ぜられ、その往復の為に従来の村より少し北側につくられた日光街道(佐野八王子通り)の宿駅であった。その千人同心の日光往復は明治元年(1868)廃止されるまで約200年間続き、拝島村はその間200戸ぐらいの戸数を維持し、宿場として繁栄した。当時の農村は3,40戸が普通であったから、結構大きな村であったと思う。拝島村は上宿中宿下宿の3つに分れ、上宿が旗本太田氏の領地、中宿が天領、下宿は岡部氏の領地であった。龍津寺のある中宿は、ちょうど村のまんなかにあり、近くに轉馬場(宿場で準備した馬が次の宿場に行くために交替する所)があった。
龍津寺の入口には、薬医門と呼ばれる大きな門があり、その門に朝鮮国・周堂の書といわれる「玉水襌屈」と書いた額がかかげられている。この街道を通った寛政の三奇人の一人で、幕末の尊王攘夷運動の先駆者でもある高山彦九郎の著書「山陵志」の中で、日光街道を通った時この額を見て、その優れた筆跡に感嘆したことが記されている。門を通って少し歩くと右側に山門があり、左側はお墓になっている。

龍津寺山門
龍津寺山門

 

山門の前に「不許葷酒入山門」の碑が立っている。龍津寺は曹洞宗(禅宗の一派)の鶴見の総持寺派に属する寺であるから、禅宗特有の碑が立っているといわれる。山門をくぐってまっすぐに50メートルばかり行くと、正面が本堂で、中に本尊が納められている広間があり、北側に廊下につないで庫裡が作られている。

雪の龍津寺 昭和52年2月(1977) 昭島市
雪の龍津寺 昭和52年2月(1977) 昭島市

 

龍津寺の創立は1532年(天下わけ目の関ヶ原の合戦は1600年)青梅市の天寧寺の4代目住職説翁星訓和尚によって開創されたといわれる。今はあまり使われていないが大広間を小さく仕切れる、8枚の杉戸があり、杉戸には当時の著名な画家によって、8枚の杉戸絵が描かれている。彼はその杉戸絵を江戸から拝島村に来て、榎本家(本家)に宿泊して描きあげたといわれている。

この杉戸絵は昭島市指定文化財となっている。

龍津寺杉戸絵外側 「淡彩梅松図」 平成13年 (2001)
龍津寺杉戸絵外側 「淡彩梅松図」 平成13年 (2001)

 

龍津寺杉戸絵内側 「飲中八仙図」 平成15年(2003)
龍津寺杉戸絵内側 「飲中八仙図」 平成15年(2003)

 

このように龍津寺は境内も広く森にかこまれた風格のある寺であり住職の志茂説順和尚及び大黒さん(奥さん)の努力により古い寺院の伝統が生かされている。
明治23年の甲武鉄道(中央線)の開通及び青梅線の開通などにより、江戸時代に栄えた宿場はしだいに衰微したが、今でも村には江戸時代のお店の名前だけは残っている。上宿の絹屋、中宿の古着屋、鍛冶屋、縮編屋、提灯屋、下宿の呉服屋、拝島の宿の入口にあり大きな料亭であった「橘屋」、その少し立川よりにあった料亭「藤本」、さらに元三大師(拝島大師)の最近半分位に埋められた大きな池のかたわらにあった料亭「佐久間」などの名前を記憶している。

他に宿場には近辺の村々で商売する人々が泊るための木賃宿と呼ばれる簡易旅館が5,6軒あった。日光街道は千人同心のために開かれた街道で、大名は通らなかったので本陣は無く、町は江戸時代初期に新しく造られた町なので町の入口・出口は大きく折曲っていた。町が合戦の場になった時のそなえであるという。
拝島の次の宿場は箱根ケ崎(瑞穂町)であり、二本木、扇町屋、佐野、松山を通って今市で日光本街道に合流する3泊4日の行程であった。現在瑞穂町の国道16号線と日光街道の分岐点には日光街道の大きな看板が立っている。明治以後鉄道の発達により町の中心は駅周辺に移ったので、青梅線拝島駅から1600mもある村は次第に衰え、養蚕の盛んな農村になったが、戦後、人々が着物を着なくなったのでそれも衰え、現在では立川のベットタウンに近い存在になりつつある。

しかし隣村、熊川村(福生市)の境界の所に、立川バスの本社と広いバスの駐車場があり、そこから15分置きに立川駅行バスが発着しているのでバスの交通は便利であり、更に庶民の信仰厚い拝島大師(元三大師)の正月2日のダルマ市をはじめ、千年の歴史を持つ大日堂の大日如来仁王門の仁王像2体、大日堂の守護神日吉神社の祭礼として多摩唯一、夜通し行われる「榊祭」、龍津寺の本堂及杉戸絵を始め都指定・市指定の多数の文化財を擁して古い町の歴史の面影を残している。祭礼の山車に使われる人形屋台の人形部分が電線の邪魔になるという理由で大正5年に取外され、最近復現されたが、まだ日光街道の電線のため運行出来ない。しかし最近小池知事は、知事の施策の1つとして、都市景観のため電線の地下化などを提唱されているので、人形屋台が日光街道を自由に運行出来る日が来るかも知れない。市当局などの努力を望むしだいである。
また長い歴史のある千人同心の日光火の番の為の武者行列の復活も望ましい。

この様に歴史と伝統のある拝島町が再び観光等の面でも昔のにぎわいを取り戻すことを望んでいるのは私一人ではないであろう。
最後に私の幼い頃の龍津寺の思い出を記して置きたい。私の幼い頃拝島郵便局では電話交換は交換手さんが手動で行い、電信もツートンといい、技術者が行い、郵便局の裏に造られた家に住んでいたが、その技術者の一人Sさんは季節になると毎年龍津寺の竹林に筍を堀りに行っていた。

龍津寺裏の竹林
龍津寺裏の竹林

 

幼い私はそれを当然と思って毎年Sさんにつれられて筍を堀りに行っていた。あるとき筍をいつものよう採っていると先々代の島津和尚さんが静かに近よって来て、Sさんと私に筍は龍津寺のもので、勝手に採ってはいけないとゆっくりした口調で論された。Sさんと私はだまってその場を引揚げたが、私は悪い事をしてしまったという後悔の気持が幼い頃の思い出として90歳を越えた今でもはっきり記憶している。

2018-03-23 10:23:00

榎本良三のエッセイ