小田原北條氏が滅亡したあと、国替えにより主となった徳川家康は、関東の天領を治める代官所を八王子に置き、関東総代官兼八王子代官として石見守大久保長安が着任し、長安は江戸時代の八王子の繁栄の基礎を築いた。また家康は江戸の西の守りとして武田・北條の遺臣を中心として千人隊を組織した。千人隊は槍奉行に属して関が原、大阪冬の陣、夏の陣などで戦ったが、その後徳川政権が安定し、江戸の西の守りも必要がなくなったので、承応元年(1652)日光東照宮の火の番を命ぜられた(玉川上水開通の前の年)。
千人隊は50人1組で年2回交替し、明治元年(1868)日光東照宮火の番の仕事が廃止されるまで216年間にわたって続けられた。
道は最初千住の宿からの日光街道を通って日光へ到着したが、間もなく直接日光へ行く街道が設けられた。その道は八王子通りとも呼ばれたが、日光街道とも呼ばれた。八王子を出発して新しく開かれた拝島の渡で多摩川を渡り、最初の宿場拝島を通って箱根ヶ崎・二本木扇町屋をへて、佐野松山を通り、今市で日光本街道と合流して日光に致る3泊4日の行程であった。沿道には18の宿場が設けられ、宿場には御轉場と呼ばれる場所があり、ここに人や馬が準備され、次の宿場へ行くために交替した。また人馬が足りない時には沿道の村に人馬を供給する義務が課せられた。これを助郷と言い沿道の農村にとっては大きな負担を伴うものであった。幕府の財政の問題もあって、216年の間には老中会議でも、わざわざ八王子から行かなくても現地の奉行にまかせたらと言う議論もあったようだが、槍奉行が東照神君家康公を祭る日光東照宮の火の番にけちをつけるのかという意味の発言をすると、老中は皆黙って下を向いてしまって、結局明治元年(慶応4)まで続けられた。千人同心の最後の隊長石坂弥次衛門は、貴重な文化財が戦火で失われることを忍びなく思い、板垣退助率いる官軍と戦火を交じえる事なく東照宮を引渡してのち、隊員と共に八王子に引返して切腹して果てたという。日光街道の拝島の次の宿場は箱根ヶ崎であり、次は二本木、次は扇町屋で豊岡町の一部であった。現在箱根ヶ崎は瑞穂町となり二本木扇町屋は合併して入間市の一部となり、入間市の町名として残っている。これらは戦前明治以後の年を記紀(古事記と日本書紀)伝承の神武天皇が幸酉の年(前660)大和国橿原宮で即位された年を紀元元年としたとき、昭和16年(1940)が紀元2600年に当るとして国をあげて盛大なお祝いが行われ、その年に瑞穂町も入間市も、もともと組合村(戦前の合併はしないが提携して助け合った村)であったのが合併して瑞穂町・入間市となったものである。なお箱根ヶ崎の地名は、青梅にある千代戸三番集という書(北條時代)に「箱根が崎に集り云々」とあるのが起源であるという。
旧日光街道交差点 平成2年(1990)
私は妻の旧制府立第九高女(現東京都立多摩高等学校 青梅市)の同級生でYさんという人が瑞穂町にいて、よくお付合をしていたので一緒に何回かタクシーで米軍横田基地の横を通って瑞穂町のお宅まで行った。
丁度国道16号線と日光街道が瑞穂町で分れる所に薬局がありそのそばの交差点に「日光街道」という看板が立っていた。その後も一人で2,3回行ったが、瑞穂町・入間市の一帯は道の両側に茶畑がたくさんあったように記憶している。
茶畑 平成7年(1995)6月 瑞穂町
一般的には、お茶と言えば静岡県が産地だが、高級茶といえば京都の宇治茶か狭山茶と言われていた。瑞穂町には狭山池(埼玉県所沢の狭山湖とは別)や狭山丘陵があり、Yさんの家から10分位歩くとつき当りに狭山神社があり、左へ曲ると狭山池があった。狭山池を水源として残堀川が流れていて武蔵村山市を経て昭和記念公園の中を流れて、立川富士見町の富士塚の横を流れて多摩川にそそいでいる。残堀川の名前は武蔵村山市に残堀と言う地名があり、古い時代にその名前にちなんで名付けられたという。
狭山池へ行って見ると4,50年前の話だが、池は数部落の共同管理のようになっていて整備の行き届かない穢ない池であった。然し3年程たって行くと池は
オオタカの密猟監視小屋 平成8年(1996) 瑞穂町
瑞穂町の管理になり、すっかり綺麗な池になっていた。然し妙なものであまり綺麗になりすぎて、昔の伝統のようなものは失われたように感じられた。結局町の人に聞いても狭山池や狭山茶の名称や起源については良く解らなかった。
最終的に入間市に茶業博物館があり、そこでようやく色々な事がわかって来た。何でも入間市宮寺に天保年間に建てられた重闢茶場の碑があり、それによると狭山茶はもと川越茶と呼ばれ。江戸時代には栽培が盛んであったがその後衰えしまったのを明治になってから吉川、村山らの人々により再興され、品質も改良を重ねたものを江戸の茶問屋山本山によって江戸市中に宣伝され、しだいに高級茶として認められるようになったという。狭山と言うのは一体が狭山丘陵すなわち低い山が連っているという意味であるという。
然し日本書紀には日本最古の溜池の一つとして『狭山池』と言う溜池があること(場所は大阪府)が書かれておりそれと狭山池・狭山丘陵と関係があるかどうかは解らない。
豊岡の扇町屋には妻の叔母さんが御主人がなくなられてから一人で呉服屋を営んでいた。その人はとても良い人だったので早く母親を亡くした私には母親の様に思われ、結婚して少したってから茶畑の間の道をバスで行ってよく半日位何の目的もなくお世話になって端切れ(裁ち残りの布地)をもらって帰って来た。そんな事もあって私はバス通りの両側の美しい茶畑で作られていた狭山茶に深い関心を持つようになった。また妻は瑞穂町のYさんの家でYさんを立て、家事の大部分をやっていた、10歳もYさんより歳下のYさんの御主人を家事を何もしない私と較べていつも褒めていた。
2018-04-20 10:30:00
榎本良三のエッセイ