聞くところによると高尾山は年間300万人の登山者があり、その数の多さと、ケーブルカーの傾斜が急なこと、カシヒイラギなどの常緑樹や広葉樹など1598種もの植物が生えていること、その3つの点で名高い山である。ちなみに高尾山は標高599メートル、薬王院は成田山・川崎大師と共に真言宗智山派の三大本山と言われ、奈良時代から霊山として信仰が深かった。今から3,40年前の話だが、私は何回も高尾山に登った。しかし私は高尾山がそれほど好きでなかった。その理由は、高尾山そのものが嫌いなのではなかった。高尾山では山のすぐ近くまで京王線高尾山口駅が来ていて、そこから近い所にあるケーブルカー駅まで歩き、ケーブルカーに乗るとすぐ頂上近くに着き、頂上の手前の仁王門からすぐに頂上に着いた。頂上には薬王院本堂の中に薬王院と飯縄権現堂の2つの建物が建っており、そこから少し歩くと奥の院がある。東京都の区部からも近く、頂上の展望も素晴らしいのでいつも登山者が数多く、いつ行っても山頂が人で一杯なため、神社やお寺で感ぜられる宗教的雰囲気が感ぜられなかったからである。そんな事から私は直接高尾山は行かず、桃の木々が美しい裏高尾へよく出掛けた。
裏高尾の桃の木 昭和57年4月(1082年) 八王子市
旧国鉄浅川駅(現JR高尾駅)から高尾山の登山道を少し行って右へ折れると、桃の木が道の両側に続く道で、途中蛇瀧まではバスが通っていたが私はいつもバスには乗らず、蛇瀧まで歩いた。途中三度屋があった。三度屋とは1月に3回甲州街道を江戸と甲府との間往復した飛脚の定期便の宿の事である。流行歌で歌われている三度笠とはその飛脚屋の被っていた顔面を奥深くおおった様に作った管笠(すげかさ)の事である。私は春になると何回も同じ道を訪れた。たまにそこから蛇瀧まで登り、少しけわしい道であったが高尾山の頂上まで登った事もあった。蛇瀧とは白蛇が近くに住んでいたので名付けられたという。蛇瀧はかなり大きな瀧で、私が行った時は肌のすけて見える白い衣をきた女性が瀧に打たれながら熱心に修行している姿があった。
裏高尾蛇瀧での修行 昭和58年5月(1984)
私が思わず望遠レンズでその姿を撮影しようとして咎められ、私自身もその非礼に気づいて何回も丁重に謝罪して、その女性の許可を得てからその瀧行姿を撮影させてもらった事があり、その写真は今も残っている。又高尾山頂の人の多さから逃れて山頂から右の砂利の山道を歩いて奥の院まで行き、そこから途中白樺の美しい林もある山道を縦走して小仏峠の頂上に立った事があった。たった一度の事であったが古来武蔵と甲斐信濃の境にあった五街道の一つである甲州街道のこの峠に立って、江戸時代の先人達の峠越えの苦労をしのんで忘れられない印象を残した。峠には登って来た旅人達の休息の為のベンチがたくさん並べられていた。高尾山は古くから霊山として信仰が厚かったので戦国時代小田原北條氏の4代氏政の弟で、多摩の領主であった八王子城主北條氏照は、薬王院に寺領を寄付し、無断で高尾山の森林を伐採したものは死刑に処するという触れを出し、厚く高尾山の森林を保護した。
斜陽に映える林 昭和55年11月 (1980) 八王子市
そのお陰で高尾山の自然は永い間よく保存され、植物学の専門家の話によれば落葉する広葉樹林帯と落葉しない常緑樹林帯との境界に当り、両方の植物が数多く見られるという意味でも植物学上極めて重要な地点であるという。薬王院の本堂には本尊薬師如来の他、飯縄権現が祭られている。飯縄権現とは長野北部の飯縄山の山頂にある飯縄神社に由来したもので、この神社から霊感を得て祈祷師が管狐と言う想像上の狐を竹管の中に入れて諸国をまわり人々の運勢を占ったという。高尾山は天平14年(742)聖武天皇の東国鎮護の拠点として勅命により薬王院が建てられたのが始まりと言われており、飯縄権現が祭られたのは後の時代と思われる。現在高尾駅のすぐ近くに、薬王院の交通安全祈願所や信者のお墓などが作られているがそれは最近のものである。
最後に高尾山とは高い山の尻尾、すなわち秩父多摩連山の中で一番平地に近い山という意味である。
2018-05-17 10:37:00
榎本良三のエッセイ