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昔のある姑と嫁の話

昔のある姑と嫁の話

故郷と言う名のもとに自然豊かな農村の風景が美化されている。しかし故郷がそんなに理想郷であるなら、何故若者はそんなに都会、特に東京に出たがるのか。そこには色々な理由があるだろう。農村の自然が美しい事は事実だが、しかし有名な歌人の言葉にも「故郷は遠きにありて思うもの」という言葉もある。

私の生まれ育った村、拝島は江戸時代には千人同心街道(八王子の千人同心が江戸時代初期に日光東照宮の火の番を命ぜられ、その往復のために新しく開かれた街道:別名日光脇往還、日光火の番街道などと呼ばれた)の八王子の次の宿場町であったが、明治以後、鉄道・バス・自動車などの発達により宿場町の意味がうすれ、養蚕の盛んな農村に近い状態になった。

宿場町の面影 昭和26年(1951) 昭島市拝島町
宿場町の面影 昭和26年(1951) 昭島市拝島町

 

従って5、60年前の話だが私は農村の良い面だけでなく、醜い一面も見て来た。

戦争が終ってからの数年間は、私は村のつきあいの一環として、月に1回位は村の曲り角の集会場に泊って拍子木を打鳴しながら「火の用心」「火の用心」と叫びながら村内を巡り歩いた。その時私は夜食に何を食べたかはよく覚えていない。多分餅などを焼いて食べたのだと思うがほかの日に泊った人から犬を料理して食べたと言う話を聞いた事がある。当時そんなに野犬がいたかどうかは良く覚えていない。

稲の実った頃 平成21年(2009) 昭島市
稲の実った頃 平成21年(2009) 昭島市

 

又日吉神社の榊祭の当番のとき、祭りが終って一杯飲んでから、皆なでシャベルやジョレンを持って道路を修理して歩いた記憶がある。しかしそんな事は古くからの農村の習慣であり、終戦直後のまだ警察や消防の設備が充分でなかった時代の事であり、公共の仕事でもあり別に嫌だったとは思わなかった。

榊の紙垂(しで)をつくる  平成20年9月(2008) 昭島市日吉神社境内
榊の紙垂(しで)をつくる  平成20年9月(2008) 昭島市日吉神社境内

 

ただ私の印象に残ったのは当時の「嫁いじめ」の事である。

私の家は分家であり隣の家は私の家の本家で、その家は一人娘であったため婿をもらった。婿になった人は玉川上水の取入口である羽村出身であったが、私の妻も羽村出身で叔父姪の関係にあったので、ことに親しくおつき合いして頂いた。本家の榎本家は養蚕農家として明治時代からの名門であり、当時拝島に別荘があった(現在学校法人啓明学園が買収)伏見宮様に、優秀な養蚕家として御覧を賜り表彰を受けた事もあった。妻の叔父は大学卒業後東京都水道局に勤めていたがその後羽村郵便局長となり拝島村会議員等を努めて村の名士となった。又姑が近くの武蔵野村の出身であった関係から武蔵野村から拝島村に嫁に来た人の仲人を何人も勤めた。

割烹着の女性 昭和14年(1939) 昭島市拝島町
割烹着の女性 昭和14年(1939) 昭島市拝島町

 

その一人で拝島村の山内家に嫁いで来た娘がいた。その娘の実家も大きな農家であったが、嫁いで来た山内家も大きな農家である。従って当時としては当然の事であるが家事のほか夫とともに農作業にも出て働いた。ただ婚家の姑は嫁に大変やかましく、特に炊いたお米を少しでも残すと大事なお米を残したと言ってきびしく叱った。その為お米を少なく炊くと農作業の後の夕飯などでは最後に食べる嫁の御飯がなくなってしまってひもじい思いをする事もしばしばあった。夫は立派な人であったが母は実母であったから、妻を思ってもあまり文句は言えなかった。

あるとき来客の予定があるので少しお米を余分に炊いたら、御飯が少し残って例の通り大切なお米を無駄にしたと言って姑に激しくしかられた。嫁はとうとう耐えきれなくなって仲人である本家の叔父に相談に来て、もう我慢出来ない、家に帰りたいと言って来た。後で聞いた所では今迄何回も相談に来ていた。私はまだ若かったが、たまたま他の用事で本家へ来ていたので隣室でその話を聞くともなく聞いていた。円満な性格で立派だった本家の叔父は嫁の訴えを丁寧に聞きいろいろなだめて山内家まで嫁を送っていった。

隣室で話をそれとなく聞いていた私は山内家の嫁を大変気の毒に思って強い印象を受けた。こうして仲人の努力によって何とか嫁は離婚しないでずっと山内家にいる事が出来た。

この話には後日談がある。

山内家の嫁の我慢と姑の嫁いじめはその後も続いたが数年過ぎてから姑は脳梗塞で倒れ、寝たきりの状態となり嫁の世話を受けるようになった。

晴れて一家の主婦となった嫁は今迄の鬱憤を晴らすかのように、姑の寝ている前で八王子の呉服屋や立川のデパートから担当者を呼んで一番高級な着物・帯・羽織などを取り寄せたくさん買込んだ。しかもその金額は今迄とは比較にならない程高額なものであった。しかし嫁はこれで満足したのか、今迄と違って寝たきりの姑と仲好くし姑の世話を良くして姑の亡くなるまで孝養をつくしたと言う。そして山内夫婦も仲よく暮した。

2018-08-16 10:54:00

榎本良三のエッセイ