榎本良三
私の生れ育った拝島村は昭和29年の昭和町との合併により、現在は昭島市拝島町となっており、拝島駅はもとの拝島村の本村から遠く離れてはいるが、JR青梅線、五日市線、八高線と西武拝島線が集中していて、立川より西の交通の要衝と位置付けられる。拝島町は周辺からの信仰が厚い拝島大師の名が知られているに過ぎないが、町には千年を超える古い歴史がある。
桓武天皇が都を奈良から京都へ移された延暦4年(794)から150年程過ぎた天暦6年(952)頃、多摩川の中洲(島)に洪水の後に上流から一体の仏像が流れついた。此の仏像は毎夜光を放ったので村民はこれを拝み、その事が島を拝む即ち拝島の地名の起りと言われている。それ以前は、村は松原村と呼ばれていた。村民が仏像を引き上げて見ると、その仏像は大日如来様の木像であったのでそれを平地に移し、一寺を建立した。その寺を密厳浄土寺と言い、その本堂が大日堂で表門が仁王門である(密厳浄土とは大日如来像のおわします浄土と言う意味)。天台宗では守護神の日吉神社(山王社とも言い比叡山の王と言う意味)とはセットになっているので、大日堂は多摩川に近い現在地附近に、日吉神社は現在の場所とは異なり現学校法人啓明学園附近にあったと言われている。
当時京都の朝廷に反旗を翻し関東を支配し新皇と称していた平将門を破って源氏の祖となった武将も密厳浄土寺の建立にかかわったと言われている。現在でも密厳浄土寺の額は仁王門の正面に掲げられている。その後大日堂、仁王門、日吉神社は現在地に移され、さらに江戸中期には少し高い階段の上の整地された場所に移された。密厳浄土寺は創建後村民の厚い信仰に守られて600年もの永い年月が流れたが大永元年(1521)になって室町幕府が関東統治の為創設した関東管領につかえ自からは守護として高月城(八王子市高月町)を居城として武蔵国を支配していた大石定重が多摩川南岸の多摩丘陵の上に滝山城を築城しここに移ったのに伴い密厳浄土寺を滝山城の鬼門除けとした。(鬼門とは城の丑寅(北東)の方向でここを開けて置くと城に災難が起ると言う。それをさける為、鬼門の方角に神仏を祭った。)その後大石氏は二代目大石定久の時北條早雲(伊勢新九郎)の時から伊豆に台頭して来た北條氏の三代目北條氏康が関東の覇権を争って大石氏が仕えていた関東管領上杉氏、鎌倉公方足利氏の連合軍と武州川越で戦った。この戦で兵力では劣勢であった北條軍が8千の兵で数万にのぼる足利上杉連合軍に夜戦をしかけ、不意を突かれた足利上杉連合軍は大混乱に落ち入り北條軍は大勝利をおさめ北條氏の関東支配は決定的となった(この北條氏は源頼朝の妻北條政子や北條時宗などの北條氏と区別するため、「後北條氏」又は根拠地小田原城にちなんで「小田原北條氏」と呼ばれている)。上杉氏は越後にのがれ、名目だけとなった関東管領職を長尾景虎に譲った。景虎はこれを受け、名を上杉景虎後に入道して上杉鎌信と改めた。あの武田信玄と川中島で一騎討を演じた上杉謙信のことである。
話を元にもどすと瀧山城主大石定久は、川越夜戦の結果小田原北條氏が関東の支配者となったので止むを得ず小田原北條氏に降服し、小田原北條氏四代目の北條氏政の弟の氏照を娘ひさの方の婿に迎える事を条件に、自らはあきる野市五日市の戸倉城に退いた。氏照は幼少の頃八王子市由木の寺で養育されていたが、成人して元治元年(1555)頃瀧山城に入城し三代目城主となり、おひさの方と結婚したと言われている。氏照はその後小田原北條氏の五代目氏直に次ぐ実力者となり、利根川流域にも小山城、榎本城などの領地を持ち徳富蘇峰氏によればその領地は石高制に換算すると50数万石に上ると推定されている。そして密厳浄土寺とその本堂である大日堂は一大伽藍へと発展する事になった。
つつじ咲く大日堂 2009.4
直接的には次の様な話が伝えられている。氏照の重臣石川土佐守の娘おねいと一族の羽村氏の嫡男とは幼い頃から大の仲好しであった。ある日二人は秋の多摩川べりで河原撫子や女郎花など花を採りながら遊んでいた。ここへかちかちと馬の足音が近づいて来た。二人が遊びをやめて額を上げると馬上には一人の武士の姿があった。武士は一時馬を止めて二人をじっと見ていたがまもなく立ち去った。後でわかった事だがその武士は瀧山城主北條氏照その人であった。一週間ばかりたって石川土佐守が登城すると氏照は二人を許嫁に致せと土佐守に言った。氏照には仲好く遊んでいる二人が許嫁にふさわしいと思ったのであろう。そして二人は許嫁になった。ところが運悪くおねいが9才の時に、ひかんの病(今の消化不良)にかかり両眼が失明してしまった。両親の石川土佐守夫妻は医師に診てもらったり薬草を飲ませたりしたが回復しなかった。小田原から医師を呼んで治療してもらったが駄目だった。そこで夫妻は最後の手段として大日如来様におすがりする外はないと考え、眼病平癒の祈願をこめて29日間大日堂に籠って、もしおねいの眼が見えるようになれば一門あげて大日堂の御堂新築したてまつらん、と盡夜をとわず一心に祈願した。すると満願の日、疲れから少しまどろんだ時、大日如来様が夢の中に現れ境内にある井戸の水で眼を洗えば目が見えるようになるとお告げがあった。
そこで境内の井戸で毎日眼を洗った所その年の秋になって右の眼は駄目だったが左の目は見えるようになりおねいは無事成人して16才のとき一族の羽村氏の嫡男と結婚することが出来た。そこで石川土佐守をはじめ一門の羽村家、大石家らの31人が発起人となり報恩のため大日堂の新築に立上り大日堂を中心とする八つの寺、即ち大日八坊が建立される事になった。大日八坊とは大日堂を中心にその別当寺となった普明寺(大日堂は無人の寺であるからその維持管理に当る寺)を始め明白院・知満寺・連住院・密乗坊・本覺院・円福寺の八寺である。おそらく滝山城主北條氏照の強い支持があったものと推測される。そして拝島村は瀧山城の城下町的存在として繁栄することになった。瀧山城の大手門は南に向いており拝島村は城下町ではないが大日八坊への厚い信仰にささえられて繁栄することになった。
千歳の藤 2009.4
現在は大日堂普明寺の外本覺院円福寺、おねいの井戸などが残っている。都の天然記念物で季節には見事な花を咲かせる千歳の藤は、もと連住院境内にあったと伝えられている。
それから15年後(1569)の永禄12年瀧山城は重大な危機を向える事になる。即ちそれは武田信玄の瀧山城攻撃である。
武田信玄は大軍を統いて小田原北條氏を討つため甲府を出発した。武田軍は韮崎附近から千曲川沿いに北上し道を東に転じて上越国境の和田峠を越え上越に侵入し更に南下して北條氏の諸城に軽い攻撃を加えながら川越街道を通って拝島に達し拝島大日堂の裏の森に本陣をかまえた。そして永禄12年10月1日から4日間に渡って瀧山城を攻撃した武田軍は平の渡(八高線の橋橋のある所)附近で多摩川を渡河し南側から瀧山城を攻撃した。
攻撃軍の総大将は武田四郎勝賴、副将には武田家の重臣があたった。出陣の時拝島大日堂の庭に立った勝賴のその日のいでたちは鹿の角を打った兜に緋縅の大鎧を着用し、武田菱の紋ちりばめたる鞍置いた栗毛の馬に打ちまたがり鎌槍を持って全軍の先頭に立って戦ったと言う。当時勝賴は23才の青年武将であった。
武田軍は一の曲輪(石と土で作られた陣地)二の曲輪を突破して二の丸に迫ったが北條方も城主氏照を始め横地監物・鹿野一庵ら重臣から一兵卒に致るまでよく戦い武田軍のそれ以上の進出を許さなかった。そこで両軍入り乱れての激戦となったがこの状況を伝令から聞いた拝島大日堂の森の本営にあった武田信玄は「二の曲輪まで進出すれば充分なるべし。ここで小敵の為に勝賴はじめ重臣を失うような事があれば武田軍にとって大きな損失である。我が敵は小田原に有り。」と言って全軍に戦闘停止を命じた。武田軍は囲を解いて小田原めざして進軍し滝山城の攻撃戦は終った。
瀧山城本丸跡の早咲きの桜 2009年
しかし氏照はこの戦の後「滝は落ちる」と称して天正14年(1586)城を牛頭天王の八王子を山頂に祭る山の頂きに築き八王子城と称してここに移った。武田信玄や上杉謙信、北條氏康等の攻撃にも落城しなかった名城を捨てて山城に移った理由は明かでない。氏照はその後天下統一を目指す豊臣秀吉の小田原城攻めの際、籠城と決った小田原に兄氏政と共に入城した。しかしその居城であった八王子城は、氏照の留守中前田利家、上杉景勝、眞田昌幸らの連合軍に攻められ一日の戦闘で落城した。氏照自身も小田原城開城の際、いったん許されて城外に出て日野出身の医師宅に蟄居していたが豊臣秀吉は徳川家康と協議した結果氏政・氏照の二人を生かしておいては天下統一の妨げになると言って蟄居先を3千の兵に取かこませ、氏政と氏照は自害した。
そして滝山城の城下町的存在として大日八坊を中心として盛えた拝島村の第一次黄金時代は終ったのである。
参考1.瀧山城は八王子市滝山町にあり八王子城跡とともに国の史跡に指定されている。城跡は千畳敷跡や本丸跡、空堀跡などがよく残っており千畳敷跡や本丸跡からの福生、昭島、立川方面の展望も素晴らしい。但し中世の城であるから天守閣はなかった。天守閣が出来たのは織田信長の安土城の天守閣以後である。
城跡への入口は国道16号線の拝島橋を渡ってまもなく右側に滝山城跡入口の表示がある。
参考2.武田勝賴の母は信玄に滅された諏訪氏の娘で、ドラマや小説では合戦の時自害を勧められたのを武田信玄の軍師山本勘助に助けられ父の敵の側室となる悲劇の主人公として描れている湖衣姫であるが事実は小説やドラマと異り人質として長く甲府にいたのを信玄が見染めたのが真相であり側室としての結婚式の様なものも行われており(側室と結婚式と言うのはおかしいがそれが当時の習慣であった)、29才でなくなったが恐らく結核と思われる。湖衣姫の臨終にも信玄は合戦を中止してかけつけており二人の間には愛情があったと思われる。先年私は妻と一緒に私の故郷拝島と最も係りの深い戦国武将武田勝賴の母湖衣姫の墓を訪れた。そこは諏訪湖を隔てて高島城が見える場所にあった。私は湖衣姫や勝賴の生涯が心に浮んで来て深い印象を受けた。
2015-11-19 15:10:00
榎本良三のエッセイ