アメリカのトランプ大統領が日本を包むアジア諸国を歴訪する最初の訪問国として日本の米軍横田基地に着陸したという新聞やテレビの報道を聞いた時、私は終戦直後の事を思い出した。なぜなら、私はトランプ大統領は羽田空港に着陸すると思い込んでいたからである。
それからトランプ大統領は横田基地から都心まで何で行ったのだろうと考えた。何故なら横田基地は私の住んでいた所から近いが、都心まで50キロもあり、行く道の国道16号線や青梅街道、五日市街道などを通ったような形跡も警備の話も聞いたことがなかったからである。おそらく今は屋上にヘリコプターが着陸出来るようなビルが都心にはたくさん出来ているので、ヘリコプターで都心まで行ったのではないかと考えている。
戦後の風景・くらし:廃品回収業の親子 当時は古い着物でも横田基地前の店に持って行くと良い値段で売れたという。米兵が帰国するとき土産にしたのである。昭和24年(1949)
終戦時には立川周辺には日本軍の軍事基地がいくつかあり、これらの空軍基地は終戦後アメリカ軍に占領された。これらの基地のうち終戦時に東京と埼玉の間にあった入間空軍基地では終戦前特攻隊(アメリカのB29戦略爆撃機や軍艦などに、燃料を片道しか積まないで体当りする日本の航空機)を指揮して多くの将兵を死なせた責任をとって、将校たちが多勢自決(自殺)した事件が起った。羽村市出身の妻は羽村市上空で特攻機がB29戦略爆撃機に体当りして共に墜落するのを目撃したと言っていた。また都内では本土決戦を叫ぶ将校達が「終戦の詔勅」の「録音盤」を奪おうとして皇居に侵入した事件が起った。
結局関係者の努力によって録音盤は奪われることなく、8月15日に「終戦の詔勅」は放送され、日本は連合国が日本の降服を勧告したポツダム宣言を受諾して降服し、太平洋戦争は終った。その頃阿南陸軍大将は玉川上水の取水口のある羽村町(現羽村市)から陸軍省へ通っていたが終戦時責任を取って佩力で自決した。当時の状況から見て止むを得なかったかも知れない。同じような事は9月始めに神奈川県厚木基地でも起った。厚木基地は終戦後連合国に占領され米軍厚木基地となったが、連合軍最高司令官マッカーサー元師はポツダム宣言に基く日本の占領統治のため、9月初めここに着陸しようとした。しかしその際、滑走路に大量の石をころがして着陸を妨害しようとした者がいた。私の知人のSさんから聞いた所によると、その直後、ある良心的な実業家がその滑走路の石を全部取除いたのでマッカーサー元師は無事厚木に着陸することが出来、そこから都内の第一生命保険会社の本社ビルに入り、ここを本部とし日本の占領政策を展開することになったのである。
占領政策は日本軍の解体からはじまり、東條英機元首相をはじめとする戦争犯罪人の逮捕裁判・財閥解体による経済の民主化自由競争の促進・大地主から小作人の解放による自作農創設による農業の民主化が行われた。最後に憲法第9条の平和条項を持つ新憲法が制定された。これによって日本人はポツダム宣言にある通り主権在民・言論集合結社の自由等の民主的な権利を持てるようになった。そして平和条約が締結され、占領は終った。
これらはいずれも米軍総司令部主導によって行われたものであり、その意味では押しつけられた憲法とも言えるが、永らく軍国主義と戦争に苦しんでいた日本人の世論はこの憲法を歓迎し支持した。当時占領下にあった日本政府から出された憲法改正案は、旧憲法を少し変えた程度のものと言われている。また当初アメリカ占領軍の意図は日米安全保障条約と引変えに日本を完全非武装化するものであったが、朝鮮戦争の勃発により、米占領軍にも、全く非武装化しては小国を除いて存在しえない事が認識されたらしく、警察予備隊・保安隊・自衛隊と名前が変ったが、自衛のための軍隊が創設され、憲法第9条も自衛隊を容認するよう解釈されるようになった。
村にもたくさんあった小作農家はほとんど自作農家になった。後に自作農家となった農家が土地を転売して家を建てたりしたため、旧地主は自作農創設と言う趣旨が曲ると言う理由で集団で訴訟を起したが、結局最高裁で敗訴した。
2019-01-24 11:22:00
榎本良三のエッセイ