10年位前長い間多摩をテーマとした写真を撮り続けていた私がまとめた写真集を、次女が写真好きの先輩にさしあげたところ、清瀬に在住のその先輩から「この写真集には清瀬の写真がないと」言われたという話を聞いた。確かにその通りで、私は幼い頃から清瀬市や田無(現西東京市)と言えば、ワックスマンらによるストレプトマイシンなどの抗生物質の治療薬が発見されるまでは、細菌による伝染性で、「不治の病と恐れられていた結核の病院がたくさんある所」というようなイメージが強く、なるべくなら行きたくないようなところだった。だがその指摘を受けて、私は平成19年11月(2007)に清瀬に出掛けた。
その時は拝島駅から西武鉄道拝島線に乗って出掛けた。初めての事でよく解らなかったが、何回も乗換えてようやく清瀬駅についた。その頃私は80才を過ぎていて少し足が悪くなっており、歩くと少し痛かったが、長女のつれあいが同行してくれたので心配はなかった。
志木街道 平成19年11月(2009) 清瀬市
駅を降りると、まもなく志木街道にぶつかり、その街道を横切ってまっすぐ行くと清瀬市役所の方へ行くので、
欅通りのある風景 平成19年11月(2009) 清瀬市
私達は右に曲って志木街道に出て志木街道を東へ歩き、水天宮に参拝して元の道を引返して清瀬駅から家に帰って来たのを覚えている。
水天宮本殿 平成19年11月(2009) 清瀬市
水天宮本殿は立派な社で、志木街道は道の両側の欅並木が美しかった事が強く印象に残っている。聞くところによると、志木市は埼玉県南部荒川の南西岸にある市で、志木街道は奥州と甲州を結ぶ脇街道であり志木市はその宿場町であったという。また水天宮の本社は福岡県久留米市にあり、祭神は天御中主大神(あめのみなかぬしのおおかみ)で、安徳天皇・建礼門院平徳子など、「平家物語」に出て来る人々が祭られている。太古から舟人の守護神とし人々の信仰が篤かったが、時代の変化につれて安産の神としても広く信仰されるようになった。
祭神の一人、建礼門院平徳子は平清盛の次女で、18才のとき高倉天皇の中宮となり、安徳天皇の母となった。壇の浦の源平最後の戦で安徳天皇と共に入水したが源氏に助けられ、剃髪して仏門に入り、真如覚と号し洛北大原寂光院に住んでいた(1155-1213年)。
水天宮鳥居 平成19年11月(2009) 清瀬市
建礼門院平徳子が水天宮に祭られたのは、もともと水天宮は水の神であり、舟人の信仰の厚い神であったから、壇の浦の入水のように水との深いかかわりから祭られたものと思われる。その時期は平家物語原本の成立時期、承久年間(1219-1222)に近い頃と思われる。
源平の争乱が終った後、当時5代34年にわたって院政を施いていた後白河法皇が大原寂光院に住んでいた建礼門院平徳子を訪ねた。徳子は後白河法皇に安徳天皇の最後のもようをくわしく物語る、有名な「平家物語」最終章の大原御幸の物語である。
私が寂光院に行ったのは40年くらい前だが、寂光院は火事で焼け、再建された後だった。帰りのタクシーのなかで、運転手さんは、今の寂光院の住職の尼僧には男がいてその男に贈物をするためによくタクシーを利用して男の所へ贈物を持って行くという話を私に繰返し話していた。私は何か平家物語の大原御幸のイメージを汚された様な気がして、いやな感じだった。
2019-02-19 11:28:00
榎本良三のエッセイ