先日は介護サービス「パステル」のかたと昭和記念公園の「こもれびの里」へ行ってきた。私は足が悪いので広い公園の「こもれびの里」に一番近い砂川口から入って車椅子を押してもらった。
こもれびの里の碑 平成28年11月 2016年 昭和記念公園 立川市
こもれびの里 農家全景 平成28年11月(2016)昭和記念公園 立川市
こもれびの里とは枝葉(えだは)の間から洩れて来る太陽の光にかこまれた場所の事で、そこにはおおきな農家があり、入り口を入ると、手前に土間があり床を四角に切りとった立派ないろりがあって、その奥に畳を敷きつめた広い居間がある。土間の西側には戦前、多摩地方で盛んであった養蚕の道具が置かれていた。その建物の主は私は恐らく、名主級の人だと思った。その家はまた庭に白い蔵があり、樹々にかこまれていた。そこには案内人がいたが、次々と訪れる見物客はあまり昔の農村の家や養蚕の事に興味がないらしく、ちょっと見て、さあっと通ってしまう人が多かったので、案内の人は寂しそうだった。
私は農村の暮しの事に詳しかったので、その案内の人と色々と昔の農村の事をはなしあった。案内の人は話相手が出来てとても嬉しそうだった。
行った時は11月だったので、庭に植っていたゆずの木に実がたわわに実っていた。
柚の実がなった木 平成28年11月(2016年) 昭和記念公園 立川市
養蚕の事は、実際に蚕が桑を食べて育ってゆくのを見、その蚕が真白な繭を作り、その繭から糸を取出す過程を見なければ道具だけでは理解するのは難しいだろう。その時聞いた話によると、この立派な農家は狛江市にあったものを解体して復元したものであることを知り、ふと3、40年前に狛江の五本松付近に行った時の事を思い出した。たしか南武線の登戸駅を降りて北側へ行き、多摩川の橋を渡ると左側に狛江の五本松がある。
狛江の五本松 昭和58年4月(1983) 狛江市
その近くに江戸後期の幕府老中で寛政の改革を断行するとともに、和歌・絵画に長じた文化人でもあった松平定信が揮毫した万葉歌碑が立っており一度洪水で流されたが再建されたと言う話で、私が行ったのはその歌碑を見て撮影するのが目的であった。その歌は
多摩川にさらす手作りさらさらに何そこの児のここだ愛(かな)しき
(手造りの着物を染めてそれを多摩川で染料を洗い流して河原に乾しているあの娘の何と愛しいことよ)
と言う万葉集にある歌である。原文は万葉仮名で書かれており、素人である私にわかるはずもなく、専門の歌人の書かれた本を読んで私なりに解釈したものであるから歌自体や解釈にも専門の歌人から見れば大きな間違いがたくさんあると思うが、その点は素人のことであるからお許し願いたい。
狛江の万葉歌碑の多摩川の反対側は調布市だが、想像すると大化の改新によって古代国家が成立した時の法令大宝律令の基本税制は租庸調であり、租は粟二石、庸は年20日間の力役、調は絹二尺と綿三両又は麻布二、五丈と麻三斤であった。調布の付近は麻がたくさん生えていて麻布がたくさん出来たのでそれを税として納めたので調布の名がついたという。しかし青梅市にも調布村があり、真相の程はよく解らない。
結局その時の訪問では五本松付近をいろいろ探しまわったけれども結局歌碑を見つける事が出来ず、狛江の五本松付近の多摩川の情影を撮影しただけで帰った。
狛江付近の多摩川 昭和58年4月(1983) 狛江市
その時の印象では多摩川の川幅もかなり広く、水も豊かで船が何艘も岸辺につないであったように記憶している。後で聞いた所では、もとの歌碑は文化2年(1805)、平井薫威によって建てられたが、彼は寺子屋の先生をしていて子供だけでなく一般の人も教えていて、松平定信とも知合いであったので揮毫を頼んだ所、快諾を得たという。その元の歌碑は文政12年(1829)、多摩川の洪水で流されたが、拓本が取ってあるので再建された歌碑と揮毫は元のものと同じである。現在の歌碑は松平定信を敬愛する渋沢栄一と狛江村の有志の基金によって大正13年(1924)狛江市中郷4丁目に再建された。その通りは俗に万葉通りと言われている。
元の歌碑のあった場所は狛江市側の多摩川の岸にあり、緒方村字半縄(現在の緒方四丁目辺り)と言われている。前に書いた様にこの付近は古くから麻の産地で麻からの手造りの織物が多く作られたと言われる。狛江の名前は古くから狛江郷と言われたが後にはもっと広い場所を指していると言う。
この訪問の経験で私は有名な場所でもそれを見に行ったり撮影に行ったりする時は、いい加減な情報でなく、しっかり場所を確かめてから行くべきだということをあらためて知らされた。
2019-03-29 11:35:00
榎本良三のエッセイ