立川から青梅に通ずる青梅線は福生駅・羽村駅の次が河辺駅、その次が小作の駅で、そこで下車し、北へバスで20分位乗ると古刹塩船観音寺の近くに停留所がある。
塩船観音寺は真言密教そして修験道の流れをくみ、御本尊は十一面千手観世音で、観世音菩薩とは、大慈大悲で衆生を済度することを本願として阿弥陀如来の脇待として衆生の求めに応じ、さまざまに姿を変えるとされる菩薩である。はじめの観世音寺(観音寺)は福岡県太宰府の東にある観世音寺・戒壇院である。天智天皇の発願により創建され、746年(天平18年)完成した。当時奈良の東大寺、下野(しもつけ)の薬師寺(栃木)と並んで三戒壇の一つと言われたが、その後衰微して東大寺の末寺となったと記憶している。しかしその後、全国各地に観音寺が建てられた。塩舟観音もその一つである。
雪晴れの塩船観音仁王門 平成6年2月(1994) 塩船観音寺 青梅市
私は、まだ塩船観音寺だけの時も、すぐそばに躑躅(つつじ)園が出来た時にも行って見た。
昭和59年5月 (1984) 塩船観音 青梅市
つつじ園が出来た後に行った時は、塩船観音寺の古い建物の伝統の良さのようなものが失われてしまった気がしたが、つつじ園のまわりの山の上の道を一巡してから窪地の下に出て、山の科面一杯に植えられたつつじの、見事に咲いて赤一色の美しさを今でも鮮明に覚えている。
昭和59年5月 (1984) 塩船観音寺とつつじ園 青梅市
塩船観音寺は大化年間(645-650)に若狭の国の八百比丘尼(やおびくに)がこの地に小さな観音さまを安置してこの寺を開いたと伝えられる。またつつじ園は昭和40年、附近の住民との協力によって完成した。
その窪地の入口にある茶店で一服してから西の方へ歩くと、東青梅駅から小曽木・成木を通って埼玉県入間市の方に抜けるやや大きな道があり、今から数十年昔の話であるが、2,30分歩くとそこに、青梅の名刹天寧寺の入口があった。
雪晴れの天寧寺本堂 平成6年2月(1994) 青梅市根ヶ布(ねかぶ)
ちょうど私が行った時は、お寺の御住職がお留守だったと見え、天寧寺の由来を知ろうと思ってパンフレットの様なものがあればもらいたいと思って数回「お願いします」「お願いします」と少し大きな声で言ったが返事がなかったのであきらめたが、寺は立派な寺で講堂と思われるような場所もある大きな建物であった。
寺伝によれば、天寧寺は曹洞宗永平寺を大本山とし、天慶年間(938-946)に平将門の開創であって、高峯寺と称し、顕密(顕教と密教)兼修道場であった。その後兵火で焼き尽され廃寺となったが、文亀年間(1501-1504)に再興されたといわれ、礼学が盛んで四方より修学の徒が集まり、後柏原天皇が開山和尚に深く帰依し、その詔勅により安寧寺と改称した。最盛期には150もの末寺を持っていたといわれる。
天寧寺は多摩の西部では昔から有名な寺で、私の菩提寺である拝島の龍津寺(りゅうしんじ)も天寧寺四世によって創設されたと伝えられ、龍津寺にはその墓もある。
曹洞宗は禅宗の一派で越前の永平寺や鶴見の総持寺などを大本山とし、道元禅師が入宗して如浄からこれを伝え受け「只管打座」(しかんだざ)を説く。これは余念をまじえずひたすら座禅をすることをいう。唐の「曹山木寂」により開かれたと伝えられている。
私はその道を通って埼玉県の境に近い小曽木・成木の方へも行きたかったが、それでは夕方迄に家に帰るのは無理なので、その日はその道を東青梅駅まで引返して青梅線で家に帰った。
天寧寺では何人かの参拝客がいて、その人達からいろいろの妖怪の話を聞いたが、その当時は私自身妖怪などあるはずもないと思っていたので残念ながら妖怪の話はほとんど忘れてしまった。しかし青梅出身の女中から聞いた話を基にしたという雪女の話など、小泉八雲の小説に出て来る青梅の「妖怪」の話の起源は天寧寺の周辺にあるのかも知れない。
古い禅寺と真赤なつつじ、私にとって忘れられない日であった。
2019-05-10 11:55:00
榎本良三のエッセイ