私は若い頃、旧制府立二中(現都立立川高校)に5年間通学をしていた。その頃はまだ五日市線が奥多摩街道沿いに青梅線と併行して立川まで走っていた。(昭和19年・1944 廃止)
だから五日市から立川まで一緒に通学していた5人の親友がいた。
立川駅五日市線ホーム 昭和11年(1936)
そのうち、五日市から通学していたM君は海軍兵学校へ進学され、紺色の制服に短剣姿が良く似合って、ちょっと羨ましい気がしたのをおぼえているが、戦時中フィリピンから内地に撤退する途中、飛行機事故でなくなられた。同時期に二中から満州建国大学に進学されたS君は、日本の敗戦とともに満州国がなくなってしまったので、帰国し長く中学校の教諭を勤められ、副校長にまでなられ、停年後も五日市の町の色々な役職を勤められて、五日市の町に貢献されたが、10年位前に亡くなられた。
現あきる野市東あきる駅から通学していたN君は、旧制弘前高校を経て京都帝国大学(現京都大学)へ入学、生れつき足が少し悪かったので兵役を免れ、自身が玉泉寺と言うお寺の出であった関係もあって大学では寺院建築を専攻されたが結局お寺の後を継がれ、住職になられた。そのかたわら民間の建築会社にも多少かかわっておられたようだったが、60才を過ぎてから胃腸の病気で亡くなられた。また現昭島市の大神駅から通学されていたA君は早稲田大学在学中海軍予備学生を志願され、海軍将校となりアメリカ海軍との海戦中戦死された。彼は一時休暇で内地に帰った時、友人に軍艦勤務をして日本軍の劣勢を知り、予備学生を志願した事を後悔した、と話された事を人から聞いた事がある。
当時は大本営の、でたらめ発表により国民のほとんどが日本軍の勝利を信じていた時代であった。私は大学に行かなかったため、現役兵として入隊し、ソ満国境(現中・ロ国境)の警備に当っていたが、運に恵まれて内地に生還し、もうすぐ95才になる今日、ただ一人生き残っている。
私の小学校は男女組一級だけの37人の小さい学校で(当時)、長男として大事に育てられたので内気でおとなしく決断力もない生徒だった。中学では小学校でやっていなかったので部活動もすることなく5年間を過した。
したがってただ通学するだけで、立川の街を遊び歩いた事もなく、多少知っているのは立川駅の南口方面だけである。ただしその南口も、道路だけはその頃とそんなに変らないが、最近の町並は大きく変ったようだ。
立川駅は明治22年(1889)当時甲武鉄道と呼んでいた現在の中央線が立川駅まで開通し、多摩の交通の中心として発展して来た。江戸時代は柴崎村という大きな農村ではあったが、それほどめだった村ではなかった。何故かというと、江戸時代には街道の宿場が中心であり、甲州街道の府中の宿の次の宿場は日野宿であり立川ではなかったからである。
柴崎村には氏神様として、諏訪神社(祭神はみなかとみの命とその妃八坂刀売(やさかとめの命)があり又中世の豪族立川氏の菩提寺として普済寺があった。江戸時代の農村ではキリシタン禁制の為氏子でなければ村民として認められなかった。
柴崎村は多摩川沿いの村々と同じく立川段丘という段丘(がけ)によって多摩川に接しており柴崎村の南側の崖際に鎌倉古道が走っていた。
立川北口駅前 昭和11年(1936) 現立川市
普済寺には寺の廻りに土塁があり、これは中世の豪族立川氏の家敷跡である。立川の地名や立川駅の駅名の起りはここから来ている。また関東の豪族の間で立川原合戦と言われる合戦があったという記録はあるが、その場所は明かでない。
普済寺は何回も火事で焼失したが、現在でも再建された寺の外に六面石塔と呼ばれる石塔が残っており、六面に阿弥陀如来をはじめとする仏像が彫刻されていて、国宝に指定されている。
江戸時代・明治時代以降、多摩川は水がきれいで鮎の遡上する川として有名であり、柴崎村の少し下流で多摩川と浅川の合流点があり、川幅も広くなっている。したがって江戸時代から多摩川の鮎漁が盛んで遊覧船を持った何軒かの料亭があり「明治十三景」と言う当時のパンフレットによると、「立川亭」などの料亭があり、鮎を捕獲し塩焼きにして酒のさかなにし、芸者さんを呼んで宴会を開き、大勢で楽しむ事が大変盛んであったという。
その後下流にいくつもの堰が出来たため鮎が遡上しなくなり、多摩川上流の水道水の取水の増加とあいまって、現在は琵琶湖から鮎の幼魚を買って来て、上流に放流する放流鮎が、多摩川の鮎漁の主流をしめている。
わたしが府立二中(現立川高校)に通っていたころは、戦時中で「質実強健」がモットーで副校長が軍国主義的な言動を繰返し自由な雰囲気ではほとんど無かった。戦後マッカーサ司令部の指令により教員の資格審査が行われた際、教頭は不適格者として追放された。
後に長女、次女も立川高校に入学し親子3人がお世話になった。二人の娘に聞くと娘の在学していた頃の立高は自由な雰囲気であったという。私も自称アマチュア写真家として写真集等も発表していたので、同じく小説や翻訳などを発表しておられた香川節君と一緒に同窓会誌の編集にたずさわり、郵便局長であるので会計に詳しいのではないかというので、同窓会の会計監査を務めたりし、よく立川へ通った。
私が郵便局長であった頃羽衣町の交番の裏あたりに昭和34年に廃止されるまで遊郭があったが、国立駅から立川駅へ行く立川との境の所に郵政研修所があり、そこで色々な研修が行われた。私も一度貯金や保険のノルマが達成出来ない成績不良の局長として研修を命ぜられ、研修に行った事がある。そこには宿泊施設もあり、他の県から研修に来たある局長が、その日の研修が終ってから毎晩、羽衣町の遊郭に行って遊郭の女性に熱中し、研修が終っても借金が返せなくて故郷の郵便局の村へ帰る事が出来なくなったという話を3回も4回も聞かされた事があって、その話が強く印象に残っている。
2019-06-07 12:00:00
榎本良三のエッセイ