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大日堂物語 ~後編~

大日堂物語 ~後編~

榎本良三

応仁の乱(1467-77)から百年、麻の如く乱れた天下をふたたび統一しようとした織田信長は元亀元年(1571)中世宗教勢力の牙城であった比叡山延暦寺の焼打を断行した。その時、炎々と燃えあがる炎の中から比叡山十六代法主である元三大師良源自作の尊僧を抱いて脱出した敬担大僧正は、その後諸国を放浪してさまざまな苦労を重ねた上ようやく大日八坊の一つである拝島の本覺院にたどりつき、そこに小さな祠を建て元三大師の尊像を祭った。(元三大師と言うのは正月三日に亡くなったのでその名がある)ところがその後次第にその祠と本覺院が同一視されるようになったので本覺院ではその尊像を本堂に移し本尊とした。以来本覺院は元三大師本覺院と呼ばれるようになった。
天正15年(1591)小田原北條氏が豊臣秀吉の小田原城攻略戦によって滅亡した後に、国替により駿河から徳川家康が関東八州の支配者となり、江戸へ入城した。家康は人心を安定させる為、各寺院に寺領を与えその印として朱印状を交付した。大日八坊の別当寺普明寺は、寺領十石の朱印状を与えられた。以後江戸時代を通じて将軍の代替りごとに江戸に赴いて新しい朱印状を受取ることになる。
家康の江戸城入城にともなって家康は重臣達に領地を分け与えたが直轄地(天領)の八王子には関東總代官兼八王子代官として大久保長安が着任した。長安は八王子城の攻略戦で荒廃した城下町を、現在元八王子と呼ばれている所から横山町の隣りに移し、少し前に開通した甲州街道の宿場町として横山町・八日市町・八幡町の三町を合併して八王子宿として整備した。
彼は武田家の能楽師の子として生れ、武田家滅亡後大久保忠隣につかえ大久保の姓をたまわり、佐渡金山奉行・石見銀山奉行等を歴任し金銀の大増産に成功し、武功は無かったが、テクノクリートとして家康の重臣団の一員となり晩年には石見守と称することを許された人物である。彼は又江戸の西の守りとして武田北條の遺臣を中心として千人隊(千人同心)を創設し八王子千人町に住まわせた。
然し彼は駿河で倒れて死んだ後、生前に不正ありとしてお家断絶の命を受け、子供の男子7人は切腹を命ぜられた。長安を取立てた大久保忠隣もとがめを受け流罪地で蟄居させられた。八王子小門町の長安の陣屋を幕府の役人が捜索した所、床下から九州のキリシタンと組んで家康を暗殺するという箱に入った長安自筆の密書と、不正に蓄えたとみられる数万両の慶長小判が発見されたためと言われるが真相は明かでない。この事件は一説によれば家康が長安の財力を恐れたためであるとか、また長安が本田忠勝と大久保忠隣の勢力争いの犠牲になったとも言われているが、その長安の不正の噂の為に八王子市では、八王子宿の創設者として大きな貢献があった大久保長安を顕彰することが出来ないでいた。しかし数年前、長安没後四百年の記念行事が小規模ながら行われたと聞く。私は八王子市が噂に過ぎない長安の悪行にとらわれないで彼の業績を顕彰することを心から望みたい。
長安の創設した千人隊(千人同心)は徳川政権が安定し西の守りの心配がなくなった後、所属する槍奉行より承応元年(1653)日光東照宮の火の番を命ぜられた。はじめ千住を通っていたが間もなく直接八王子から日光へ通じる新しい街道が開かれた。その街道は日光街道又は佐野八王子通りなどとも言われたが八王子から拝島、箱根崎、二本木、扇町屋、佐野松山等も経由して今市(栃木県今市市)で日光本街道に合流し日光にいたる3泊4日の行程であった。街道には18の宿場が新しく設けられた。
この街道を利用して八王子千人隊は以後明治元年に千人隊の日光火の番制度が廃止されるまでの216年間に、100人一組で年2回交替し合計1080回往復したと言われている。今でも箱根崎(現瑞穂町)の国道16号線との交差点附近には日光街道の案内板が掲げられている。そして拝島村はこの街道の八王子の次の宿場町として第二の繁栄期を迎えた。然し江戸時代の中期以降、大日堂よりも元三大師の信仰が次第に盛んになり、元三大師本覺院の方が参拝客が多くなりその傾向は今日まで続いている。
拝島の宿は江戸時代を通じて200戸あまりの戸数でそれ程大きな町ではないが、普通の農村が3、40戸なのに較べると大きな町であった。明治13年の統計によると村の入口には橘屋・亀屋と言う2軒の芸者さんの居る旅館があり又木賃宿6軒(木賃宿は江戸時代には商人は旅館へ泊って商売をしたので旅館へ泊る時、燃料費を払うすなわち木賃を払って自炊したので決して「東海道膝栗毛」という江戸時代のベストセラー小説の言うような下等な旅館と言う意味ではない)、飲食店20軒あまり他に紺屋、縮紬屋、綿屋、鍛冶屋、質屋、呉服屋2軒などがあり大日堂と仁王門の間には大きな風呂屋もあったと言う。また村内は養蚕が盛んであったので撚屋(よりや)と呼ばれる小規模な製糸工場が多くあり生糸を八王子に出荷していた。
その間江戸時代中期には大日堂の守護神日吉神社(山王社)が比叡山延暦寺の守護神日吉神社本社より山王大権現の称号を授けられたのを記念して普明寺住職順榮の提唱により明和4年(1767)に日吉神社の榊祭りと呼ばれている祭りが始り、初の神輿渡御の神事が行われた。その時の模様は普明寺所蔵の「山王祭礼図絵」にこまかく描れている。
この絵巻は東京大学史料研究所に勤めていた先々代の住職勝野西信氏が同寺所蔵の古文書の中に埋れていたものを表装したもので表装は新しいが、描かれたのは江戸時代後期である絵図を見ると、榊祭りの神輿渡御の行列は神仏混合で行われており多く僧侶が随行している。そして神輿行列に使われた多くのお道具は赤坂の日枝神社から譲られたものと言われている。図絵では榊は神輿渡御の先頭に立っているが、現在は榊と神輿渡御は分離されている。榊祭りは静かなお祭りなので神輿渡御(例年9月19日に執り行われる)に先立って若者のエネルギーを発散させる為に榊が午前0時頃の深夜から早朝にかけて行われるようになったのがその理由である。その時期は明治維新の少し前と言われている。
また行列では屋台は8人で担ぐ担ぎ屋台であったがその後まもなく八王子の屋台文化の影響の下に領主が異っている上宿・中宿・下宿の3台の屋台が建造された。

日吉神社祭礼 日吉神社の階段を降りた榊 2003年
日吉神社祭礼 日吉神社の階段を降りた榊 2003年

 

榊を担ぐ人々 1981年
榊を担ぐ人々 1981年

 

現在の屋台は慶応から明治にかけて新造された二代目である。その特長は一本柱方式と呼ばれ移動舞台として全国各地で祭りに使われている屋台の中で技術的にも操作が難しく、極めて貴重なものである。具体的には屋台の中心に一本柱を建て更にその上に連台と呼ばれる台を置きその上に人形を置いた屋台である。
人形は上宿が和唐内(近松門左衛門原作の国性爺合戦の主人公)中宿が弁慶(平家物語のヒーローの一人源義経の忠実な家来)下宿が素戔鳴尊(日本神話の人物天照大神の弟)などいずれも歌舞伎のスターが選ばれている。但し大正5年電燈線が引かれた際は電線に引っ掛かる為人形連台の部分が外され永い間放置されていたが、最近になって下宿の原島重夫氏が人形部分を発見し同氏を中心とする人々によって平成17年(2007)90年ぶりに復元された。

人形(スサノオノミコト)が90年ぶりに復元された下宿人形屋台(山車) 2007年
人形(スサノオノミコト)が90年ぶりに復元された下宿人形屋台(山車) 2007年

 

続いて上宿屋台も連台と人形が残っていたので秋山三郎・小山訓男氏ら復元委員会の人々の努力によって平成26年(2013)に復元された。
30数台の屋台文化を誇った八王子の屋台が昭和20年8月2日(1945)の八王子大空襲により大部分が焼失した現在、民衆の文化である人形屋台の文化財としての価値は極めて貴重なものである。しかし東京電力やNTTに電線を高くする工事を要請しているがまだ実現していない。恐らく近い将来実現し上中下3台の屋台が神輿渡御の行列の後に続いて八王子千人隊の通った日光街道と同じ道を通るように成るだろう。
元三大師の正月二日三日の大師縁日には多摩で一番早いダルマ市が開かれるが日吉神社大日堂の初詣の人達も加わって大賑わいとなる。

元三大師境内のダルマ市 1977年
元三大師境内のダルマ市 1977年

 

私の子供の頃の記憶では大日堂、大師境内に立並んだ多くの露店で売っている綿飴や鯛焼・蛸焼などのおいしさ、昭和30年位まであった黒須曲馬団(サーカス)と大きなお風呂桶の様な円型の環の中をオートバイでぐるぐるまわる曲芸やロクロッ首など色々な催し物に熱中して楽しかった自分だけが記憶に残っていて、神様や仏様にお参りした事はあまり記憶に残っていない。しかし最近は自動車の発達で自家用車で来る人が多くなり人の話では以前ほどの賑わいは見られなくなった様だと言う。

参考1
大日堂を中心として仁王門日吉神社などを包む場所は現在「大日堂領域」として東京都文化財に指定され,天台宗の寺院のありかたを最も良く残している場所と言われている。大日堂の本尊「大日如来」脇仏「阿弥陀如来」「釈迦如来」の3体の仏像と「阿形」「吽形」の2体の仁王像も東京都の文化財に指定されている。この仁王像は鎌倉幕府の御家人谷地孫三郎の寄進したものである。昔蓮住院の境内にあったと伝えられる「千歳の藤」は東京都の天然記念物に指定されている。又「榊祭り」についても神輿渡御、深夜の榊巡行、3台の屋台などを総合して東京都の文化財に指定されている。
参考2
夜通しの祭りとしては昔国府があった府中市の暗闇祭が有名である。新撰組の土方歳三の話でも知られているようにその夜に限り人妻でも娘とでも一夜の契りを結び翌日は何事なかった様な顔をしている習慣があり、現代ではその様な慣習は許されなくなった為とも想像されるが祭りの終りは午後12時迄となった様で拝島の榊祭りの榊巡行が多摩地区で唯一の夜通しのお祭りになった。

2015-11-19 15:22:00

榎本良三のエッセイ