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幼い頃の思い出話

幼い頃の思い出話

老人ホームへ入って4年半、ここの生活にもなれて来て安定したくらしを送れるようになると、時々幼い頃の事を思い出す。その一つは春になると田圃に紅紫色に一面に美しく咲いていた蓮華草の花である。なんでもその花が稲のそだつのに肥料になると聞いていた。

その他に野菜作りの肥料として化学肥料の外に人糞が広く使われ、人糞を利用するための溜池が作られた。この池に自分が落ちた事はなかったが、友達が落ちて衣類も身体もどろどろになって、なかなか臭味が抜けなかったという話を何回か聞いた。もし自分が落ちたらどうなっただろうと考えるとぞっとした。

しかしこれは戦前の話で戦後は化学肥料の普及が進んで肥料として人糞を野菜に掛けるような事はなくなった。

今の我々から見ると不衛生のようだが、私達の幼い頃はそんな事は考えなかったので、人糞をかけてすくすく育った野菜を喜んで食べた。もしかすると生物の中でもっとも賢いといわれる人間の糞がそんなに不衛生であるはずがない、と考えたのかも知れない(笑)。

次に幼い頃の思い出として残っているのは、「度胸試し」の事である。あれは小学校3、4年の頃だったろうか、私達は放課後の遊びは餓鬼大将の下で遊んでいた。ある時、餓鬼大将が度胸試しをやると言いだした。私の家の裏は龍津寺の竹林でその竹林の北側に、西の方からお寺へ通ずる一本の道があり、その途中に稲荷神社が祭ってあった。東側からその道を通って稲荷神社まで夜8時頃行ってみろと言うのである。私は言われた通りある夜、稲荷神社まで行ってみた。すると頭の上からかなり大きな竹製のものが落ちて来た。

幸い私の身体には当らなかったが、それは、多分鶏の卵を取るために、鶏小屋で鶏を並べて入れて卵を生むと卵が落ちるようなしかけになっている長方形の入れ物で、俗に「パタリ」と呼んでいた。夜でまっくらだったので、上に人がいて誰かが落したのか或は自然に落ちて来たのかよくわからなかった。

然し稲荷様のある場所は私の家のすぐ近くで、よく行く場所だったので、別に怖いような気はしなかった。そのまま元の場所へもどったが、餓鬼大将は別に何とも言わなかった。しかし何故かその事は、はっきりと心の中に残っている。幼い頃の事は大部分が忘れてしまっているのに、その事だけをはっきり覚えているのはどうしてか、いまだにその理由がわからない。「バタリ」の話は勿論これは卵を生む雌(牝)に関係した話であり雄(牡)は首をひねられて殺されて鶏肉にされて人間に食べられてしまった。私は飼われている雄が、首をひねられて鶏肉にされる場面をよく見掛けた。その時は何とも思わなかったが、今考えて見ると可愛いそうな場面であった。その時は首を取られた鶏の首のあたりから血がだらだらと流れた。

平成元年(1989)年6月  拝島町
平成元年(1989)年6月  拝島町

 

最後に思い出したのは、しじみ(蜆)のことである。前にも書いたが、多摩川には上流から下流に向って、左岸の拝島村(昭島市)右岸の高月村(八王子市)の所に、多摩川と支流秋川との合流点にあたるために、ここに七ヶ村堰と言う大きな堰が作られていた。そこから水を引き拝島村・田中村・大神村・宮沢村・中神村・築地村・立川村(現昭島市・立川市)の七村の田圃に水を引くための堰であった。その後、立川村は地域が発展して田圃が無くなってしまったので脱退したが、堰から引いた用水路は現在でも立川堀と呼ばれている。その用水路を通って私の家から多摩川へ行く道にはコンクリートの橋が掛っていた。その橋を渡ってまっすぐに行くと200メートルばかりで多摩川堤防で、橋から右に曲ると、すぐ学校法人啓明学園の構内であった。その立川堀で私達はよく釣をしたが、ある時、橋から上流の川の中をのぞくと、何と驚いた事に蜆(しじみ)の大群が川一杯に発生したのがみつかった。しじみ汁が身体に良いなどと言う事は漢方の知識で父母が話しているのを聞いていたので、幼い私も、しじみが身体に良いなどと言う事は知っていた。

しじみは小さな貝なので私は川へ入って家に持帰ろうとも思ったが、子供の事だからそんなにたくさん持帰っても仕方がないとも思い、子供の私には立川堀で釣れた鮒(ふな)や鮠(はや・うぐい)の方が大切に思われたので、しじみはそのままにして家へ帰った。

昭和59年(1984)3月 羽村市 羽村堰下多摩川
昭和59年(1984)3月 羽村市 羽村堰下多摩川

2019-09-25 12:13:00

榎本良三のエッセイ