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国分寺市おたかの道湧水園を訪ねて

国分寺市おたかの道湧水園を訪ねて

新聞に、国分寺村の古い名主の屋敷があると載っていた。現在そこは国分寺市の「おたかの道湧水園」という公園施設になっているのを知り、その名主の屋敷が見たくて行ってみた。

私の住んでいた拝島村(現昭島市)は明治元年に廃止された旧日光街道の宿場町で、八王子の千人同心が日光東照宮の火の番警備を命ぜられてから200年続いた街道の、八王子の次の宿場町であったが、村は上宿・中宿・下宿の3宿に分れていた。上宿は旗本領、中宿は天領、下宿は別の旗本の領地であり、上宿には名主、中宿には代官、下宿には別の名主がいたはずだ。私が幼い頃からあった「稲毛屋」というお菓子屋さん、「中屋」という薬屋さん、根岸屋という呉服屋さんなど、今はみんな無くなってしまったお店の名前などは良く覚えているが、名主さんの名前など良く覚えていないし、代官の名前など聞いた事がなかった。だから私は、旗本たちは多く江戸に住み、名主が旗本の領地の実質的な支配者であったと考え、その名主の大きな屋敷を見てみたかった。

他の人から、元の名主の家は、今はないが、かわりに遠くから移築した家がある、という話を聞いていたので、9月初め頃に介護サービスのかたに車椅子を押してもらって名主の屋敷があるという「おたかの道湧水園」に行ってみた。

おたかの道湧水園長屋門 2018年9月 国分寺市
おたかの道湧水園長屋門 2018年9月 国分寺市

 

行ってみると確かに屋敷は大きく、門は立派で倉も名主の倉にふさわしい大きい倉であったが、肝心の名主の家は無く、移築したとされる建物は現代建築のような博物館となっていて、中に昔の名主の遺品をならべてあった。私は正直いって名主の家らしい建物が無かったので大変がっかりした。

おたかの道湧水園の倉 2018年9月 国分寺市
おたかの道湧水園の倉 2018年9月 国分寺市

 

そこでやむなく公園のなかの「おたかの道」と言われる道をまっすぐに東の方へ進んだ。そこから更に緑深い道を進んで行くと道を横切って3本の湧水(わき水)が静かに流れて来た。湧水にふさわしくすき通って手でくんで飲めるような清らかな水だ。国分寺は江戸時代から徳川御三家尾張藩の鷹狩が行われた狩り場となり、崖線の湧水群に小道が整備され、「おたかの道」と呼ばれるようになった。

鷹狩とは飼いならした猛禽類の鷹(オオタカ、ハイタカ)やハヤブサ、ワシ(イヌワシ、クマタカ)などを用いて鳥(鶴・雁・鴨・鷺・雉)や小獣(野兎など)を捕獲する狩猟の一種であり、江戸時代、この「おたかの道」付近で広く行われた。鷹狩は古来より天皇・貴族の野外娯楽として盛んであったが、戦国時代以降は武家で盛んになり受け継がれた。

おたかの道湧水園 2018年9月 国分寺市
おたかの道湧水園 2018年9月 国分寺市

 

ふりかえって見ると昔、外国の学者から透明度世界第二位と評価された多摩川の水も上流の開発が少しずつ進んだ事もあって、次第に透明度が低くなり、江戸の用水路として1653年、4年(承応2年、3年)に作られ、羽村から四谷大木戸まで武蔵野を堀割して多摩川の水を供給した「玉川上水」も1901年(明治34年)廃止された。そして現在は羽村の取入口から地下で村山・山口貯水池に運び、両貯水池から直接都内に供給しているが、東京の発展にともない今は利根川水系のダムの水が中心で多摩川水系の水は20%にすぎないと言われている。

そして羽村の取入口だけが残っている今日、このような清らかな湧水があることは私達にとってとても嬉しい事である。そこからやがてその道は私達が公園に入った道とつづく道へ出て私達はそこからタクシーを呼んで立川で食事を取り午后2時頃老人ホームへ帰った。ほんの近くの小さな旅ではあったが思い出深い旅であった。

なお参考までにつけ加えると、名主のことを関西では庄屋と呼んでいるようだ。

2020-01-14 12:32:17

榎本良三のエッセイ