私の家は、武蔵野平野が多摩川に接する段丘の上にあった。その段丘は地質学上は、拝島段丘、立川段丘、青柳段丘(国立市)と呼ばれ崖になって多摩川に接していた。したがって家から崖を降りると、多摩川の堤防まで300メートル位であったので、小さい時は、四季を問わず毎日のように多摩川に遊びに行っていた。
昭和29年(1954) 昭島市
多摩川の堤防に上ると、すぐ下に河川敷があり、その先に多摩川の本流があった。流れを挟んだ先には真正面に、戦国時代に大石氏ならびに大石氏の婿養子となって三多摩方面を領地とした北條氏照が加住丘陵(多摩川と秋川の合流点の南側にある丘陵で北丘陵は滝山丘陵と呼ばれる)の上に築いた滝山城跡と丘陵の下の瀧村・高月村・丹木村(現八王子市)があった。上流の方を眺めると大岳山をはじめ奥多摩連山がつらなっていた。
この様な拝島側から見た風景のうち、多摩川の河川敷に、秋になると女郎花(おみなえし)と河原撫子(かわらなでしこ)がぎっしり咲いている美しい風景がとりわけ心に残っている。女郎花は黄褐色の花で高さは最高2メートル、河原撫子は高さ数十センチで色は淡紅色の花を咲かせる。私は黄褐色の女郎花と、淡紅色というより白い花の河原撫子がぎっしり咲いているように見えたその印象の強さから、その2つが入っている秋の七草の名前はすぐ覚えた。すなわち、「萩・桔梗・葛・藤袴・女郎花・薄・撫子(はぎ・ききょう・くず・ふじばかま・おみなえし・すすき・なでしこ)秋の七草」という歌である。
平成10年11月(1998)昭島市
一方春の七草の歌もあると聞いていたが、そちらの方はあまりよく覚えていなかったので辞書を引いて見ると「芹・薺・御形・繁縷・仏座・菘・蘿蔔(せり・なずな・ごぎょう・はこべら・ほとけのざ・すずな・すずしろ)春の七草」である。
私は春の七草より秋の七草の方が強い印象を持ち、よく覚えていたので秋になるといつも暗誦し人々に教えていた。
ただこの歌をよく内容を考えないでお経のように暗誦したが、みな聞いているだけでべつに異論を持ったり、内容について質問したりする人もいなかった。
昭和32年(1957)昭島市
旧制中学(府立二中、現都立立川高校)3年の時、国語の時間に先生から秋の七草とはどんな草か、と質問があった。私は手を上げて、萩・桔梗・葛・藤・袴・女郎花・薄・撫子(はぎ・ききょう・くず・ふじ・はかま・おみなえし・すすき・なでしこ)とするすると答えた。すると誰かがそれでは八草ではないか、と誤りを指摘したので、級の皆がどっと笑った。
何と私は藤袴の事を、藤と袴の2つに分けて別の花だと思って発音していたのである。それは正に級友の指摘の通りであった。しかし国語の先生は私の事を気の毒に思ったのか、七草にもいろんな考え方がある、とか言ってその場を納めてくださった。私は今でも先生の事を有難く思っている。
よく調べて見ると藤袴は高さ1メートル、全体に香りがあり、秋、茎の先端にうすむらさき色の小さな房状の花が多数咲くというが、私はまだ見た事がなかった。だからそのような誤りをおかしたのである。私は学年男女1クラスで37人しかいない村の小学校では優秀な成績の生徒であったが、三多摩じゅうから生徒が集る旧制府立二中(現立川高校)ではクラブ活動もしない地味な生徒であった。当時学校の運営は1年生の時は級長がいたが2年から数名の学級委員が任命されて運営されていた。学級委員には成績の良い生徒が任命されていたが、私は優秀な生徒が皆陸軍士官学校や海軍兵学校に4年で進学したあと、5年になってやっと学級委員に任命された程度の生徒だった。しかし4年で陸士や海兵に進学した生徒は皆、アメリカとの太平洋戦争で戦死された。こういう形で秀才を失うのは残念な事だと今でも思っている。
1年の時級長だった人は「海ゆかば」の作曲者として有名だったN氏の息子さんであったが、旧制浦和高校に二中から進学されたあと、結核で亡くなられたと聞いている。
春の七草については結婚して数年過った昭和23、4年頃、その頃どこの家でも1月7日に七草粥をつくっていたが、当時家では七草粥に普段たべる野菜を入れて食べていた。
昭和15年(1940)
しかし妻が嫁に来てから、厓下の田圃のあぜ路で、芹や薺を取って来て七草粥を作ってくれたその初々しい姿が、新婚時代の思い出として今も楽しく思い出される。
2020-03-09 12:41:44
榎本良三のエッセイ
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