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あきる野市の思い出

あきる野市の思い出

榎本良三

昭和19年(1944)に青梅線と併行して走っているとの理由で、五日市線の拝島・立川間の奥多摩街道沿いに走っていた部分は廃止された。何でもその使わなくなった線路は、タイとビルマの間の鉄道を引くのに利用するとかいう噂であったが、実際に線路が取外されたのは、太平洋戦争の終戦の2日前であった。しかし、戦争が終った直後は、毎日の食べるものにも困るような状態であったので、沿線の市町村の人々も、復活運動をする余裕が無かった。したがって私達は村から1.6キロもある拝島駅へ行くには、バスか歩くしかなかった。
しかし多摩川の支流・秋川沿線に行くには必ず五日市線を利用しなければならなかった。多摩川を鉄橋で渡ると東秋留駅と西秋留駅・増戸駅などの駅があり終点が五日市駅であった。その後秋川にそって走る五日市線の沿線の村々と五日市町が合併してあきる野市となり、西秋留駅は秋川駅と名を改めた。
「あきる」とはこの辺の古くからの地名であり合併時、それに武蔵野にならって野を付けて、「あきる野市」と言う名前にしたという。
東秋留を降りるとすぐ近くに玉泉寺と言うお寺があり、その住職のN君が私の旧制府立二中(現立川高校)の同級生で、5年間五日市線で一緒に通学した親友であった。

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二宮神社 平成31年4月(2019) あきる野市 

玉泉寺のすぐ近くに府中の大國魂神社とともに多摩では古い歴史を持つ二宮神社があり、「国常立尊(くにとこたちのみこと)」を祭神とし9月9日の祭りの日には露店でやっている「生姜市」が有名であった。私はお祭り当日、N君の所へ寄ってからお祭り見物に出掛けた。

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二宮神社 平成31年4月(2019) あきる野市 
あきる野市の思い出
 

当日は神社客殿では、現在「二宮歌舞伎」と言われている歌舞伎を地域の人々だけでやっていたように記憶している。私はいつも、お祭りの神輿や、当時近辺でも珍しかった奉納相撲を見たりして、露店で鯛焼や蛸焼などを食べ、家に帰るとき御土産に「生姜」を買って帰った。瑞々しい黄色の根っこで辛味があり、おいしい御飯のおかずだった。最近ある人に話したら、「生姜市」なんてあるのか、と目を丸くしていた。
同級生のN君は旧制中学の成績は同じくらいであったが、彼は弘前の旧制高校に合格し、そこから京都帝大の建築科に入り寺院建築を専攻した。卒業後東京都の建築関係の部署に入ったが、そこで労働組合運動に熱中したため、コミュニストとみなされ、東京都を解雇された。その後、村民多数の意志により父親の後を継いで玉泉寺の住職となった。村民のなかにはあまり暴れられては困るという声もあったようだがそれは小数であった。私は彼に会うたびに、あなたは寺院建築を専攻したのだからこの寺の境内に小さくても良いから自分の建築家としての考えを表現したような建物を残すよう、再三勧めたが、結局実現しなかったようだ。彼は若い頃胃腸の病気にかかった事があり、そのような病気で60才位のとき亡くなった。私は数学が不得意であったので、旧制高校受験も考えたがそれは断念し、当時特定郵便局長は世襲制だった事もあり、結局東京商科大学(現一橋大)専門部と逓信官吏練習所(現郵政大学校)を受験し、卒業後拝島郵便局長を世襲することになった。当時N君の奥さんから「主人が寺院関係の行事で海外に行くとき、わたしを一緒に連れていってくれない」などという苦情めいた話を聞いた事もあったが、奥さんもN君の死後後を追うようにまもなく亡くなられた。寺の後を継がれた息子さんとは、口を聞いた事がなかったので玉泉寺とのつきあいはそれで終った。  春などは五日市線に乗ると、東秋留と西秋留のあたりは線路の両側に梅林(註)がずっと続いていてとても美しかった。  秋川駅(西秋留駅)の北側はずっと平原になっていて当時は東京都で最後に残った盆地「平野」とか言われていた。駅の南側には4月初めには1本の桜が美しい花を咲かせていた。その頃私は写真撮影のため、色々な所へ行ったが、駅の構内に満開の桜が咲いているのを見たのはこの時ただ一度だけである。
駅の南側はなだらかな坂になっていて、秋川の岸まで通じていた。その道を滝山街道といい、少し行くと牛沼の部落があり、昔は牛沼村と言った。ここに妻の母の実家があり、実家の坂本家は江戸時代から続いている八王子千人同心の世話頭格の家であったという。私も一度か二度行った事がある。そこから更に滝山街道を行くと雑木林の中に石碑があり、あとで聞いた所では、この碑は小学校の教え子有志たちによって建てられた坂本龍之輔の顕彰碑であるという。

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坂本龍之輔顕彰碑 令和元年5月(2019) あきる野市牛沼

坂本龍之輔は、妻の母の実家の出身であったそうで、その名は知っていたが詳しくは知らなかった。彼は明治中期に活躍した教育者で、小学校の教育こそは人間形成の基本である、と確信して情熱をそそぎ、転勤した下谷区の小学校で、都内でも多数のこどもが奉公に出されたり、子守りや手伝いをさせられ、貧しくて学校に行けないでいることを知って、貧民学校の設立に取りくみ、「東京市万年尋常小学校」初代校長となった。彼は、昭和17年(1942)3月、73才で生涯をとじたが、この顕彰碑が下谷万年尋常小学校の教え子有志によって建てられ、教え子である添田知道が龍之輔をモデルにした小説「教育者」を書いた。私が50~60年前に見たのはこの碑であったが、雑木林の中に雑草におおわれて、訪れる人もなく建っていた。私は、少し前に訪れた、明治の小説家で「武蔵野」の著者「國木田独歩」の記念碑が玉川上水の三鷹と武蔵野市の境の所にあって、やはり夏草に覆われていたのを思い出して少し寂しい気がした。

註 記憶では梅林だったと思うが、現在秋留駅の近くは桜の名所がたくさんあるようで、梅ではなく桜であったのか定かでない。

2020-04-13 16:12:54

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