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国立の思い出

国立の思い出

 私は長い間国立と言う駅名や市名が気に入らなかった。
 たとえば青梅という駅名は京都朝廷に反対して東国を支配し、農民の味方として信頼を集めた平将門の手植えの梅の木になった梅がいつまでも赤くならないという伝説によって名付けられ、立川駅・立川市は、普斉寺のある場所にその屋敷跡の土塁が残っている中世の豪族立川氏の名前から名付けられた。また国分寺駅・国分寺市は、古代の英主聖武天皇の勅願により五穀豊穣国家鎮護の為国々に国分尼寺とともに建設された武蔵国の国分寺跡にちなんで名付けられている。それらの名と較べると、立川と国分寺の中間にあるので国立駅・国立市というのは何となく軽いと言うかつまらない様な感じがしていたからである。然しだんだん国立の事を知るにつれてあまりそう感じなくなった。
国立地域は谷保天神のある古い村の谷保村であるが谷保村は甲州街道に面してはいたが日野宿と府中宿の中間にあり、宿場町ではなかったので小さな村であったと思う。ただし谷保天神は有名である。天歴元年(901)讒言により菅原道真が大宰府に左遷されてから、京を追放された道真の弟が今の府中附近で道真の尊像をきざみ祭神としたのが始まりとされ、その後現在の谷保の地に移って来たと言う。江戸時代には村が貧しかったので神社を維持するためにしばしば江戸で御開帳(本像を見せて御布施を集めること)を行った。しかし元来御開帳と言うのは寺社にとって重要な行事で、あまりしばしば行うべきものではないので谷保天神の事をヤボテン(野暮な天神様の意)などと言う軽蔑的な言葉で言われる事もあったという噂を書いた本などを見た事がある(それはあくまで江戸時代の本の話で現在の話ではない)。しかし谷保村地域は現在の国立地域全体から見ると南に偏っており、やはり国立と言う名称が的を得た良い名称かなあと思うようになった。
 中央線の国立駅は大正15年4月1日に開設され、その頃箱根土地株式会社(現在の西武系国土株式会社)により宅地開発が行われ、設計はこの老人ホームに入居されている山内いせ子さんの叔父に当る東大教授大沢一郎氏が担当し、現在の様に駅前広場を中心として放射線上に道路が造られ美しい町並が形成されたという。そして道路ぞいの土地は宅地として分譲された。

国立駅前風景 昭和28年(1953年)
国立駅前風景 昭和28年(1953年)

 

 私の国立との最初の出会いは昭和10年頃私が小学校6年の時、父に連れられて行った時であった。父が何の目的で行ったのかはっきりしないが、その時はまだ分譲予定の土地はあまり売れず雑木林の中の売れた土地に住宅がぽつんぽつんと建っていた。それは私の中でばくぜんと想像していた武蔵野の風景そのものだった。「これが武蔵野か」とその時見た風景は後々まで私に深い印象を残した。
 わたしにとって故郷を表す最も適切と思われる言葉は「多摩」という言葉と「武蔵野」という言葉だが、多摩という言葉は上流の丹波川から転化したとも言われ、また玉の様に水がきれいな川と言う意味ともいわれている。「武蔵野」とは埼玉県川越以南東京都府中までを武蔵国と言ったのでその辺一帯を武蔵野といった。その語源をたずねて見ると古くムサ上の国とムサ下の国があったがその二つの国のうちムサ下の国が武蔵の国になったという。私の両親は多摩川から600メートル位の所に住み、わたしはそこで生まれ、少年時代はプールがない時代なので夏休みになると一日中多摩川で遊んでいて、夕方になると友達と一緒に家に帰って来るのが日課であった。夏以外は餓鬼大将と言われる遊び仲間のリーダーの後を付いて野山を駈け巡っていたが野山と言っても養蚕地帯であったから多摩川から家までの田圃の外は桑畑や麦畑や野菜畑の印象が深い。これが武蔵野だなどと感じたのは父と国立へ行った時の事が最も印象深い。今日でも三鷹の東京天文台から直線で北へ向って玉川上水とぶつかる所に昔のベストセラー、国木田独歩の「武蔵野」の碑が立っているが、国木田独歩が見たり、私が国立で見たりしたような武蔵野の面影は現在ではほとんど見られなくなった。
国立との第二の出会いは昭和16年(1940年)の事である。当時私は3月に東京府立第二中学校(現立川高校)を卒業し郵政大学校と東京商科大学商学専門部(現一橋大)を受験した。

一橋大学構内の紅葉 平成19年12月(2007年)
一橋大学構内の紅葉 平成19年12月(2007年)

 

 私は郵便局長の一人息子に生れ当時三等郵便局と呼ばれた特定郵便局は郵政事業の創始者前島密が郵便局を全国的に普及させるため地方の名望家に局舎と土地を提供させ、かわりに局長という名誉を与えそれを世襲させ一定の経費を支給し人件費物件費を払い残りを所得とする一種の請負制度であったので、私も二代目局長の父の後を継ぐつもりであり、郵政大学校が第一志望で東京商大専門部が第二志望であったが、第一志望の受験に失敗した場合にそなえ両校を受験した。しかし合格発表は東京商科大専門部が3月初めで郵政大学校が5月初めであったので、東京商科大に先に合格したわたしは郵政大学校の合格発表まで1ヶ月の期間があり、その間国立の東京商科大学商学専門部に通学した。当時は太平洋戦争の始まる半年前の事であったが入学して見ると学内にそれほど緊迫した様な空気はなく入学後の初めての新入生に対する講話でも当時専門部の主事であった上原専禄教授は当校の卒業生はキャプテンオブインダストリー(産業界の指導者)を目指すべきだと言われた。仏印(フランス領インドシナ)に日本軍が進駐した当時の軍事状勢や東亜解放の為の聖戦とか国家総力戦とかいう事が新聞やラジオで連日のように報道されていたが、政局について言及されることはなかった。私はかえってその講話に強い印象を受けた。又短い期間ではあったが戸田のボートコースで行われたボート部の試合の応援などに出掛け校歌を合唱したこともあった。

応援団 平成3年(1991年)
応援団 平成3年(1991年)

 

 しかし簿記会計などの始めて習う専門課目にはあまり興味が持てなかったので幸運にも両校に合格できたわたしは躊躇なく郵政大学校へ転校した。その当時すでに現在の国立の町並はほぼ出来上っており、東京商科大学は駅から少し行った所の右側が予科と本科で左側が専門部であった。平成天皇の誕生(昭和8年1933)を記念して植えられたのが始りという桜並木についてはあまり印象に残っていない。まだ桜並木が見事に開化するまでに生育していなかったのであろう。  
第三の出会いは昭和50年頃の話である。
その頃私は拝島郵便局長として多摩西部の局長会(局長のグループ)で3月に一度位発行する機関紙の編集委員を勤めていた。当時国立駅前局長のK氏が編集責任者だった。国立駅から直線道路の右側の7、8軒行った所に国立音楽大出の美人女社長が経営している洋菓子店があり、店の奥がコーヒーを飲めるようになっていて、女社長とK氏が親しかったのでそこで度々編集会議を開いて洋菓子を取りよせコーヒーを飲みながら編集を行った。洋菓子店の経理の面で色々と助言しているようだったK氏は、局長を停年退職後その洋菓子店の経理担当に正式に就任した様だが、その国立音大出の美人の女社長との関係がどうなったかは知らない。
終戦後の国立は昭和24年に東京商科大学が一橋大学と改名され、立川へ

大学通りの桜 昭和62年4月(1987年)
大学通りの桜 昭和62年4月(1987年)

 

通ずる道路の立川との境にある郵政研修所と国立駅との中間あたりに国立音楽大学、玉川上水寄りに東京女子体育大学、駅から少し歩いた所に国立高校、桐朋学園などが出来、学園都市としての風格が整い駅前からの直線道路の桜並木も見事な花を咲かせるようになった。
 数々のヒット曲で知られる当時のアイドル歌手山口百恵も三浦友和と結婚し、直線道路交差点から右側に少し行った所に住んでいたようだ。
そのころから私は多摩をテーマとした写真撮影に熱中していたのでその後しばしば国立を訪れ、勝手知った一橋大学校内で近くの保育園から保育士さんにつれられて遊んでいた子供達や女性などのスナップ写真・大通りの風景写真などを撮した。私の5冊の写真集の中には国立の風景が何枚かのせられている。
 国立の街も歓楽街のない学園都市・住宅都市として見事に整備された。しかし昭和10年頃見た武蔵野の面影は止むを得ない事ではあるが多摩全域で失われてしまった。

2016-01-28 15:32:00

榎本良三のエッセイ