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武蔵府中の郷土の森を訪ねて梅を見る

武蔵府中の郷土の森を訪ねて梅を見る

榎本良三

 昭和の終りの頃一度行った事があるような気がするが、その時の記憶では梅の季節でなかった関係もあって、特別な印象は残っていない。しかし今回、2月17日に「府中郷土の森」に行った時は、梅が満開に近い状態だった。まだ少し季節が早いと考えていたが、今年は晴天の日が多く気温が高かったせいかもしれない。
 いつもの介護サービスのかたに、車椅子に乗せてもらい、立川から府中郷土の森の入口までタクシーで行った。運転手さんが近道を知っていたので、その道を行ったら30分位で郷土の森の入口に着いた。

府中郷土の森
府中郷土の森 平成31年2月(2019) 府中市

 以前書いた通り、府中は昔の武蔵の国の首都であるから、現在でも色々なものがある。たとえば新田義貞が群馬より兵を起して、この合戦で勝利し、そのまま一気に稲村ヶ崎から鎌倉幕府のある鎌倉に攻め入り、鎌倉幕府を倒し後醍醐天皇と共に建武の中興をなしとげた、有名な府中分倍河原の古戦場を始め、府中国府跡、大國魂神社などがある。後醍醐天皇はその後、公家の世から武士の世に変っていた政治を、再び公家の世にもどそうとしたので、武家の統領だった足利尊氏の反発を招き、後醍醐天皇の南朝と北朝とが対立する南北朝対立が続いた。 最終的に南朝が北朝に併合されて、足利尊氏らを中とした室町幕府が成立し、武士の世は続くのである。
 これらは、江戸時代から長い時間をかけて編纂し明治になって完成した水戸藩徳川光圀の大著「大日本史」に細かく記されている。世間では徳川光圀というと、水戸黄門さまといって、全国をまわって善を勧め悪を正す「水戸黄門漫遊記」が講談・浪花節などで広く語られて有名だが、実際は水戸光圀の大著「大日本史」の中で南北朝のどちらが正統かなどを広く論じたことが幕末の尊皇攘夷論などに大きな影響を及ぼし、明治維新の原動力となった事は言うまでもない。

府中郷土の森
府中郷土の森 平成31年2月(2019) 府中市

神戸の湊川神社には、光圀が元禄5年(1692)に建立させた「嗚呼忠臣楠子之墓」の墓碑があるが、一介の地侍にすぎなかった楠木正成親子が、江戸時代すでに高い評価を受けていた事が何よりもこの事をよく示している。この時代すでに江戸幕府が安定していたのでこの様な書物が書けたのだろう。
 黄門とは水戸藩主徳川光圀の隠居後の名前で徳川御三家の中、江戸に近い事もあって絶えず幕府の政治に係わっていた。
 また、水戸には日本三名園の一つといわれる偕楽園があり、梅の名所としても有名である。他の二つは岡山の後楽園と金沢の兼六園である。
 満開の白梅と紅梅の林をながめながら、その梅のトンネルの中で車椅子を時々止めてもらって、夢中で写真を写していた。

府中郷土の森
府中郷土の森
府中郷土の森 平成31年2月(2019)府中市

 そのうちに、以前湯島天神の白梅を撮りに行ったことを思い出し、天満宮(天神さま)の話を思い出した。平安時代中期、菅原道真は朝廷で右大臣にまで昇進した。右大臣とは大政大臣、左大臣につぐ要職であった。また彼は学者としても有名であった(菅氏文集等)。しかし藤原時平の讒言によって、九州の大宰府に流され、ここで亡くなった。すると京都でまもなく大地震や大火災、またばけものが出たりしたので、これは菅原道真のたたりであろうといって、その霊を鎮めるため、大宰府と京都に天満宮が建てられた。 その後道真が著名な学者であったため、全国各地に学問の神として天満宮(神さま)が祭られた。道真の歌として有名なのがこの歌だ。

東風(こち)吹かば 思い起せよ梅の花 主(あるじ)なしとて春を忘るな

2020-06-11 11:55:19

榎本良三のエッセイ   |  コメント(0)

 

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