榎本良三
今から7,80年も昔の話であるが、当時の拝島村役場(現在の昭島市役所拝島支所)の少し東側の奥多摩街道の反対側に、多摩川の河原の方向に行く道があった。そこを歩いて行くと立川堀にぶつかり、川べりの道を東へ歩いて行くと、田圃の中に安藤養魚場があり、低く長いような建物で、かなり大きな池にたくさんの鮎を育てていて、成長した鮎を東京銀座の自分の店に出荷していた。当時も今も鮎の養魚場などは多摩地区では他になかったので、私の記憶の中に残っている。
父は三等郵便局長(民営化以前の特定郵便局長)をしており、三等郵便局は請負制度だったので、私は父の後を継ぐ事になっていた。三等郵便局は、局舎は局長個人のもので、局長が提供していたが、それぞれの郵便局は部会と言うグループを作って、部会を通じて上司の指示を受けていた。私の勤めていた拝島郵便局は、立川・国立・昭和・拝島が一つのグループであった。また各局には「郵政監察官」という名前の人が来て、年1回、その局の業務の監査に当っていた。父はその監査を受け、金銭の処理に不正や間違いがない事を確認した上で、慰労の意味で監察官を安藤養魚場へ連れて行った。
私はまだ子供であったが、鮎を釣ったり塩焼にした鮎が食べたりしたくて、いつも父の後をついて行った。父の後をついて行って実際に鮎を釣ってみると、無数の鮎が池に密集しているのに不思議な事に鮎が良く釣れる事もあれば、全く釣れない事もあった。ずっと後になって考えてみると養殖している鮎には一日に1回か2回餌をやるから、餌をやった直後であれば釣れないのかとも思うし、天候の関係で釣れなかったのかも知れない。
その辺は良くわからないが、幼い私は父と監察官が養魚場へ行く時は必ず後をついて行った。
すでに公的な仕事は終っているので、私がのこのこ後をついていっても子供だから何とも言われなかった。その後、多摩川と支流・秋川の合流点附近に農業用水堰として設置された九ヶ村用水取水口も水道用の取水の量がどんどん増加し、多摩川の水位が低くなったため少し下流の多摩川・秋川合流点附近に1933年(昭和8年)に堰が設けられた。
これを七ヶ村用水堰と言い、堰から引いた用水路は立川堀と言った。