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石油ランプから電球へ

石油ランプから電球へ

坂本謙郎

 私が小さいころは照明に石油ランプを使っていた。私の小学生前のころの仕事は、石油ランプのホヤみがきであった。夕方になるとランプのホヤを外して、内側の煤で汚れた部分を布きれで綺麗にすることだった。子供の小さな手の方が拭きやすかったからだろう。夜になるとその石油ランプの明かりで本を読んだり手仕事をしたり、日が短くなる冬などは食事をしたりする事もあったが、あかいランプの光の下で食事をするのもなかなか乙な雰囲気だった。 それから何十年も後の話であるけれど、スウェーデンに行った時にものすごく暗い照明の下で食事をした経験から、今のように明るい照明でないところもあるので、必ずしも明るいからよいとは限らないのだろうと思った。その後わたしが小学生になったころには、ランプは、今は殆ど使われていない裸電球にかわって、まったく別世界のように明るくなった。それとともに私のアルバイトは終わった。

 電化されたとはいえ、屋外も屋内も裸配線だった。今だったら明らかに違法になるもので、戦争中になると発電力が落ちて時々電圧低下で暗くなったり停電したりした。しかしそれだからといって文句のいえる時代ではなかった。

 その頃“電気パン焼き器”なるものが噂で広まってきた。

 材料は飛行機の廃材ジュラルミンと、菓子折のような木箱と、電気工事の余った電線だった。パンの材料は小麦粉と塩だけだった。
 小麦粉以外は恐ろしく粗末なもので、しかもすべて「見当」で作った。今思えばなんと無茶したかと思うばかりだが、軒下の100ボルトの裸線に電線を繫ぎ、ジュラルミンの板にくくりつけて小麦粉を水で練って少し塩をまぜたものを入れた木箱の両端にセットして、その間に電気を通して焼くのだが、すべて全くの勘だより、なんと危険な焼き物であったか、今にして思えば、冷や汗ものだった。焼き上がり具合は全く塩加減だけで決まり、料理での塩加減より遙かに難しく危険な東電(盗電)パン焼だった。貧しくて無知でなければ出来なかったこと、恥ずかしくも懐かしい思い出でである。

2020-08-07 19:08:41

坂本謙郎のエッセイ   |  コメント(1)

 
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コメント

洋子さんからご案内をいただきました。わたくしは、榎本武と榎本としの3女で 実家の近くの拝島で暮らしております。
健郎さまのことは、邦子おばさまの従兄で牛沼にお住まいでいらっしゃると伺っていますが、どんな方かと想像しておりました。
エッセイ、写真いずれも興味深く、拝読拝見いたしました。
次に見せていただけるものも楽しみにしております。

田尻 訓枝 のりえ / 2020-08-30 00:48:45

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