府立二中の思い出 その1
府立二中の思い出 その1
坂本謙郎
東京府時代に作られた旧制中学校、いわゆる府立ナンバースクールは1978年創立の府立第1中学校(現:都立日比谷高校)に始まり、1901年に府立第2中学校(現:都立立川高校)が開設され、1943年の第23中学校まで創設された。すべて男子校であった。現在はそれぞれ東京都立の新制高等学校として運営されている。別に旧姓高等女学校も女子のナンバースクールとして存在した。
私が2中(現立川高校)に在学していた時期は戦中から戦後にまたがっていたので、学制が新旧のはざまにあって、4年終了と5年卒業、新制高校の第1期生と、卒業年度が3年に亘った。余談であるが第19中(現国立高校)は設立当初は校舎がなく2中の校舎を使っていた。そのため教室が足らず1時間ごとに教室を移動していた、その時には19中の生徒を’ヤドカリ“とからかった事を覚えている、
1年生の時は午前には普通に授業を受けていて、学校生活は比較的平穏だった。例えば体操の授業の中にグライダーの練習があった。まさか校庭にグライダーと格納庫があったとは、後の時代の殆どの生徒が知らないだろう。校庭の南のプールの横に格納庫があり、練習の時は、我々の組がグライダーの機体を倉庫から引き出して、別になっている翼をつけて1人操縦できる人が乗り、グライダーの先にあるフックに太いゴムの綱を2本ひっかけて、1本に5~6人かかって引っ張り、ひもが伸びた時に機体を放してゴムの力で飛び上がるのだが、校庭が狭いので、そんなに長くは飛べなかった。しかも余程操縦が上手くないと飛べないので、主に担任のK先生が乗ることが殆どだったような気がする。美術の先生なのに唯一飛べる先生だったのかもしれない。我々はK先生に持ち上がりで4年間お世話になった。東京美術学校(現東京芸術大学)出で絵画専門であったが、“くらっちゃん”なるあだ名で大変人気があった。
描かれた絵画を空襲から守るため、私の家の蔵にお預かりした事もある。
たましん地域文化財団が、先生の絵画を多数買い求めて所蔵し、たましんの美術館で時折展示している(倉田三郎 近く2021年5月22日~8月29日 多摩信用金庫国立支店6階のたましん美術館で展示予定)。私が在学した4年間、穏やかで時には強烈に怒り、心情的にブレない先生はK先生だけだった。どの世界にも数少ないが煌めく星は存在するものだ。
倉田三郎の風景画
画集 倉田三郎画業60年より
戦争中は、生徒に対する罰は今ではとても考えられないほどひどかった。先生の95パーセントがしょっちゅう生徒の些細なミスを罰した。T先生は音楽の先生だが、合唱の時音程が外れる生徒がいると、閻魔帳なる生徒用点数簿で頭を小突く。歴史のK先生は黒板消しで殴る、また歴史のK先生は、できない生徒に“廊下に行って、コブを作ってこい”と言った。まじめなY君はしっかり、廊下のコンクリートに頭を打ち付けてきた。先生本人は言葉だけで済むから、犯罪にはならないかもしれないが、今言えば裁判沙汰だろう。でもそのころは、そういう体罰は日常的だった。そのうえ戦時中で学校には必ず配属将校がいて軍事訓練を担当していた。その戦時中であっても、担任のK生の態度は全く変わらなかった。終戦を迎えると、生徒に対して凶悪だった先生ほど、態度が一変して、にこにこして今までの態度をコロッと変えたのには驚いた。
倉田三郎 自画像
それに比べK先生(くらっちゃん)の態度は戦中戦後にかかわらず、全くかわらなかった。
戦後も、会社務め時代になっても、立川の北口の喫茶店でお目にかかることがあった。もうお別れして久しいが、懐かしい人の一人だ。
2中の1年生の時代でも授業だけでなく、勤労に駆り出された。今では想像出来ないことだが、授業が午前中で終わると、午後歩いて立川駅と国立駅の中間にあった土地を1クラス全員が鍬で開墾させられた。何の目的かも説明されずに黙々と耕した。ある日突然サイレンが鳴り響いたので何気なく空を見上げると、物凄い高空を四本の飛行機雲を引きながら飛んで行く見慣れない飛行機が富士山の方向から東京方向に向かって飛んで行った。そのときは新開発された陸軍の飛行機かなと思って見過したが、後に広島と長崎に原子爆弾を落とし、日本の大都市や重要軍事拠点を破壊した、今でさえ話題に上る有名な爆撃機の傑作で、日本製の戦闘機の零式戦闘機(ゼロ戦)と並ぶ知名度がある、B-29だった。日本はグアムからそんな長距離を往復飛んでくるとは思っていなかった様だ。真偽のほどは分らないが、重い爆弾を抱えてそんな長距離を飛べるエンジンを開発しているとは想像していなかったらしい。墜落したB-29のエンジンから日本が持っていなかった、耐熱性が高いシリコン(ケイ素)系のオイルが発見され、長距離飛行できる謎が解けたと言われている。
開墾の話に戻るが、毎日毎日開墾でくたびれて気を抜くと、監視の先生に全員並ばされて鍬の柄で頭を殴られた。今では考えられない暴挙ともいえるが、そんな事を考えられる時代ではなかった。後から考えると特に根性のない先生ほどひどかった気がする。
これと似た戦争末期に起きた事柄で、松根油掘りという作業を中学生の時にやらされた。今では全く想像が出来ない事だろうが、松の根を掘ってそれから採れる油を航空燃料として使おうとした。考えてみれば途方もなく無駄な企てであった。軍部の担当者は藁をも掴む思いだったのだろう。我々はそれでさえも黙々と従った。今の人に言わせればなんて馬鹿な、と言われようが、それは時代の流れで、0.9世紀前から生きてきた人間には、当時は当然の成り行きだったのである。殴られたり、働かせられる事がそれ程苦痛ではなかったのは、何故だろう?
2021-05-12 11:33:24
坂本謙郎のエッセイ
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コメント
今朝の新聞に北園高校(元府立9中)の記事があり高校紛争(大学紛争が高校に波及)に触れていて、それが自分の時代でしたので懐かしく読みました。が、戦時中や終戦を迎えた府立2中となると大分前のことで、鮮明に記憶なさっていることを文字にするのは、貴重な記録でもあります。 倉田三郎氏の絵は好きで、信用金庫のカレンダーになっていましたので、毎年幾つかもらっていました。八王子の夢美術館でも実物は見ました。これからですので、たましん美術館に行ってみようと思います。2中で教えていらしたとは、自画像は初めてで、気骨のある方でもいらしたのですね。
田尻 訓枝
/ 2021-05-16 17:56:06