群馬県富岡市にある富岡製糸場が世界遺産に登録されたのは誠におめでたい話である。歴史的遺産に順位をつけては悪いが、強いて順位を付けるとすれば世界遺産、国宝、重要文化財、都道府県指定の文化財、市町村指定の文化財の順序であろう。私は東京都昭島市の文化財保護審議会委員として二十年近く市の文化財の保護指定の仕事に携わっていた。たとえば昭島市拝島町がまだ拝島村といった頃の、幕末から明治にかけて造られた三台の屋台(山車)の、市文化財指定の仕事に携わったことがある。又、近くにある滝津寺というお寺の本堂にある杉戸絵(杉戸に襖絵と同じように書いた絵)について、普段よく見ていた美術館等の襖絵と比較して薄暗い本堂で見た杉戸絵に異なった魅力を発見して感激し、当時昭島市の指定文化財であったものを東京都指定の文化財に昇格させようと申請書を作成、東京都に働きかけたが結局失敗に終った経験があった。そのため今回の世界遺産登録を実現するまでの富岡市の当事者の努力苦労には共感する所が多く今回の世界遺産登録を心から喜びたい。それに富岡製糸場にはいまだに忘れない思い出がある。
27、8年前の昭和63年頃、私達昭島市文化財保護審議会委員の一行は視察の為富岡製糸場を訪れた。私はその時富岡製糸場の事をよく知らなかった。しかし昔から私の住んでいた昭島市拝島町は(戦後昭和町と合併して昭島市となる以前の)拝島村と呼んだ時代から養蚕が盛んで、畑に桑畑がたくさんあり、季節には道を通るとドドメという桑の実を食べて口を真青にした男の子によく出会った。農家では皆、蚕を育てて繭を取り、それを小規模な家内工業的な製糸工場で繭から糸を取り出し、糸を撚って生糸を作りそれを八王子に出荷していた。又八王子から横浜まで生糸を輸出する為の絹の道が造られていた。
撚糸工場の内部(秋山秀雄宅)1986年12月昭島市拝島町
昭島市中神村には規模の大きい西川製糸場が、隣村の熊川村(福生市熊川)には片倉製糸場があった。そんな伝統があるので委員の先輩が富岡製糸場を視察地に選んだのだろう。
現地に行って見ると当時はまだ片倉製糸の所有であり、内部の設備の大部分は非公開であったと最近になって聞いたが、私達が行った時は、内部はがらんとしていて何でも内部の設備は岡谷に盗られてしまったと言う案内人らしい人の声を何回も耳にした。しかし製糸場と繭の倉庫に分かれた製糸場全体は煉瓦造りのフランス風の美しい建物で、我々がよく見る鉄筋コンクリートや和風の
建物と全く違う感じの建物であった。また庭には木製の大きな板で次の様な歌が書かれていた。その歌は昭憲皇太后(明治天皇の妃)の御歌で「糸ぐるまとくとめぐりて大御代の富をたくする道開きつつ」という歌である。
この建物を見、御歌を読んだ時私は徳川幕府を倒して明治維新を実現し、さらに近代社会を実現する為ヨーロッパの生糸に対する強い需要があったとはいえ明治5年という早い段階でフランスからの最先端の技術と設備を導入し、日本の伝統技術と組み合わせて世界的規模の大量生産を実現し、しかも全国から選ばれた工女さん達によって製糸業の指導者を全国的規模で養成する事にも成功した事実を目の当りにして、私は何か「明治前期の偉大な創造的精神」のようなものを感じて後々までも心に残った。
最近聞いた所では創業時の撚糸生産の設備は岡谷に移されたことは事実であり、現在の富岡製糸場の設備は昭和40年頃造られたもので、その前には片倉製糸が経営していた。明治5年、国営の工場として建設された富岡製糸場は明治中期になって民間に払い下げられ、三井銀行等を経て片倉製糸の経営になっていた。最盛期の大正時代には1000人近い工女さんが働いていた。工女さんは白い制服の下に筒袖の着物を着、袴を履いて働いていたという。工女さんは寄宿舎に入っており近くの商店街で買物をしたり昼食の弁当を食べたりしたという。然し昭和になって女性の服装がしだいに和服から洋服へと変り、戦後は特に女性が着物を着なくなり、製糸場も生産設備の自動化と相俟って操業を停止した昭和62年には工女さんの数は80人に減っていた。そこで片倉製糸(株)は諏訪湖に面した長野県岡谷市に製糸場の主力を移した。
片倉製糸熊川工場(熊川付近 現福生市)1950年
片倉製糸ではその後もこの貴重な文化遺産を守るため2,3人の社員を残して建物や庭の維持管理に当っていたが平成17年10月に富岡市が土地を購入、製糸場の建物は片倉製糸が無償で市に寄付して現在は市の所有になっているという。富岡市に所有が移ってから、富岡製糸場は工場全体が博物館になっており岡谷にある最初の設備のレプリカが公開され、庭に立っていた昭憲皇太后の御歌は入口の右側に歌碑になっているという。発祥地を記念するため富岡製糸場の設備を岡谷に移したとも考えられるがそれにしても、がらんとした工場の中で案内人と思われる人が何度も「岡谷に盗られた」と大きな声で絶叫していたのが私には不可解でそれが大きな謎の様に思われた。
この様にして絹と絹織物は広く全国に広まり、戦前の輸出品の主力製品の一つとなった。それは現在の自動車や家庭電器製品が輸出品の主力であるのと同じである。然し製糸業の中心地として岡谷の名は広く知られているが我国の製糸業の発祥地である富岡の名前は意外と知られていない。それには理由がある。
岡谷などの製糸場は「女工哀史」「あゝ野麦峠」などの舞台として知られ後者は映画化もされたが、その内容が岡谷のみならず製糸業全体に何となく暗いイメージを与えているからである。「女工哀史」などを詳しく読んだわけではないが岡谷などの製糸工場には近県から農家の娘が集められ工場の仕事に一生懸命働いた。当時は人口の6割を占める農村では少数の地主の他は大部分が小作人で、収穫による収入の大部分を小作料として地主に取られ、生活は極めて貧しく米作地帯でさえも小作農家は米を食べられず麦やひえを常食にしていた。彼女たちは前述の様に一生懸命働いたが、労働基準法もなく労働組合もない当時の製糸業の劣悪な労働環境のなかで長時間労働を強いられた結果、多くは当時の不治の病であった結核に感染し、働くことが出来なくなり、県境を越えて貧しい農村の家に帰ることを余儀なくされ、そこで短い一生を乙女の美しさや恋愛や結婚の夢や将来の希望をかなえる事もなく終ったというのが概要である。
操業時代の富岡製糸場にはその様な事はなく労働時間も7時間30分であったが、その後の時代の「女工哀史」などに書かれていた事が製糸業全体のイメージを悪くし製糸業の発祥地であり国の重要文化財でもある富岡製糸場の偉大な功績は忘れられていた。今回の世界遺産登録によって富岡製糸場の日本の近代社会の発展に尽した功が再評価されることを心から祈っている。
追記 数日前の新聞で文科省の文化財保護審議会が富岡製糸場を国宝に指定する様答申した記事が出ていたが近代日本の出発点とした誠に国宝にふさわしい答申であると思う。
2016-02-26 15:49:00
榎本良三のエッセイ