府立二中の思い出 その2
府立二中の思い出 その2
坂本謙郎
中学二年の初頭から一斉に戦争に必要なものを造る工場にクラス毎に配属された。我々は南武線の府中の次の駅の南多摩駅の近くの山合に造られた爆弾を製造する、火工廠と呼ばれる工場に配属された。
爆弾とか砲弾用の爆薬を扱うので火気厳禁で、作業に使う熱源はスチームで、鉄類は一切使用が禁止され靴に使うビョウも真鍮のものに変えさせられた。
この工場は板橋に本工場があり、其の分工場であった。小さいものは橋梁等を爆破する洗濯石鹸位の大きさの爆薬から、大きいものは100キロ爆弾用であった。特殊なものでは、歩兵が使う対戦車用爆雷とか、アメリカ本土を狙った 風船爆弾とか高射砲用の時限信管用の火薬など、軍用のあらゆる爆薬を扱っていた。
米軍の侵攻が迫ってきた頃には、大型のロケット弾まで造っていたが、ほんのわずかしか使われなかったようだ。工場は 山の谷合に一棟ずつ隔離して建てられ、万一の事故に備えていた。全く火気を使わないにもかかわらず、一度だけ大事故があった。ある朝工場に到着すると、谷合の一つの工場が爆発して、工場の一棟が建物、機械、人すべて飛ばされ、残ったのは焼け爛れた山の斜面だけであった。いかに爆弾の威力が凄まじいかを目の当たりにして我々は茫然と立ちつくした。
我々の工場での仕事は一斗缶(尺貫法でいう一斗:18リットル)位の缶に詰められたTNTの爆弾の外側に木の枠を取りつける事だったが、爆薬の威力を知らないままに木部に釘を打ちつける作業をしていた。知らぬが仏で、時々誤って缶の中に打ち込んでしまった時もあったが事故にはならなかった。
暫くして、この作業から私を含めて3人が別棟の検査係に移動になった。そこでの主な作業は、高射砲の弾丸の時限装置に使う黒色火薬(爆薬ではなく時限装置の導火線に使う)の比重を計る事と燃焼スピードを計測することだった。 どうやって計るかは省略するが、その仕事の責任者は陸軍の将校であった。
仕事が終わると、その頃はとても手に入れられない化学の教科書を与えられて、毎日講義を受けた。多分その内容は中学レベルを超えていたと思う。今にして思えば、この講義の時間は戦時中の勤労動員の中で得難い時間であった。戦時にしては考えられない経験で、こんな人が存在したなんて驚きである。
その人の名前も学歴も聞く暇なく終戦になってしまったが、人生の中でも忘れ難い思い出のひとつである。
終戦後はこの土地は米軍に接収され、米軍のゴルフ場になっている。何度か米軍基地の人の紹介でプレーしたことがあるが、今は前よりも立派なゴルフ場になっている。
戦争が終わってからしばらくして、登校したら学校が米軍に接収されていた。正門に行くと米兵の顔が校舎の窓からいっぱい出てきて登校を暫く諦めたが、間もなく引き上げたので登校した。校内はかなり汚れていた。シャワーが無いのでプールで体を洗ったらしく、石鹸がいっぱいころがっていたり、鉄砲の弾がごろごろ散らばっていたことを思い出す。
2021-05-19 16:11:01
坂本謙郎のエッセイ
| コメント(2)
コメント
父上の事が懐かしいです、羽村にいた母上はりさくさんかのところにいくと、良くお会いしましたが、拝島にお嫁さん行ったのは知りませんでした、立高には、最近行っておりませんな、モノレールから、天文台を懐かしく見るぐらいです、親戚と同士で、同窓会が開けそうです、では
森田様
/ 2021-06-13 17:56:01
貴重な体験談を読ませていただき有り難うございました。歴史の資料として貴重なものだと思います。若い人に読んでもらいたいです。
父からはよく二中の同級生が多く戦死しているという話を聞きました。父の96年の人生において友人と呼べる人もいろいろいたと思うのですが、最晩年(老人ホーム)の頃は、戦死した何人か二中の同級生の話ばかりしていました。
森田多恵子
/ 2021-06-11 22:01:31