第二次大戦終結後アメリカによって日本の公的機能、民間産業、皇室などが大幅に、再起出来ないように改変された。
殆ど壊滅的に見えた日本が1960年代に不死鳥のごとくよみがえり、民間の企業はアメリカに追いつき追い越せとばかり猛追を始めた。
そのころ私もコニカに入社した。当時のフイルム産業は世界的に寡占で、主要企業数は再大手のアメリカのEeastman Kodak,ドイツのAgfa,日本の富士写真フイルムとコニカであった。日本勢はナンバーワンのKodakに追いつこうと必死だった。
我々も1960年代後半になってKodak並みのカラーフイルムが完成し米国市場で通用するものかどうかの市場テストを行うことになった。其のころは海外に出張するだけでも大変な時代だった。たとえば会社の役員が海外に出張するだけでも羽田まで部下が見送りしていた頃で、若造が一人で市場性のテストをするなんて、思いもよらなかった。 それでも適当な候補者がいなかったようで、私にお鉢が回ってきた。何となく「ニューヨークに行けるから」と安易に引き受けたが、 よく考えてみるととんでもない事だった。
何しろ英語も実際に話したことは殆どなく、技術関係の写真用語ぐらいは何とかなるぐらいだった。英語といっても我々が習ったキングスイングリシュではなく、アメリカ訛りの英語であることも十分理解していなかった。今だったら死んでも行かなかったと思うのだが。
具体的な目的は、ニューヨークのマンハッタンの中心街の写真ラボで、持ち込んだフィルムのテストをして市場性の可否を判断することだった。
何しろすべてが初めてだったので、まずはどこに泊まるかとか、通勤はどうするかとか、どのくらい費用がいるのかとか、誰と仕事をするかとか、諸々の事を聞けるのは貿易関係の部署に聞くしかなかった。現地のことについては、現地法人のコニカUSAがあったのでFAXでやり取りした。
ニューヨークは物価が高いと聞いていたので、貿易部長に聞いたところ大変な答えが返ってきた。君のレベルで泊れるホテルでは、命が保証できるところはないと。