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怖いもの知らずのアメリカ出張(2)

怖いもの知らずのアメリカ出張(2)

LaGuardia空港から市内へ

坂本謙郎

 飛行便はそのころはアラスカのアンカレッジ経由で、アンカレッジで一度給油したので、1日がかりの旅程だった。東へ向かって飛ぶのだから、あっという間に日が暮れる。その時はわからなかったが、東に向かって飛ぶほうが西に向かって飛ぶよりも時差ボケが大きくなる。 さすがにいい加減な私でもコニカの中米事務所までは不案内なので、駐在員のM君が空港まで出迎えに来てくれて、事務所まで車で送ってくれた。当日は事務所の案内と、宿泊するホテルの案内に終わった。
 事務所の案内で一番驚いたのは、トイレに行きたいと言ったら一緒についていくとのこと、まさか子供じゃないのだからと思ったが、事務所内でも防犯上、トイレは専用の鍵がないと入れないとのことで、それ程治安が悪いのだと知った。それからは一事が万事‘take care of myself ‘ だった。ラボの社名はBerky Mannhattanでトップの経営者はユダヤ人だった。事務所内にはアメリカ人ばかりで、当然ながら英語(アメリカ訛り)が飛びかっていた。ひとつだけ幸いだったのは、相棒になったアメリカ人がとても親切だったことだ。写真の仕事が専門であったので、用語は技術屋同士なのでだいぶ助かった。
 事務所の場所はマンハッタンの北の有名な駅、グランドセントラルのすぐそばで、繁華街の北の場所にあった。あの911が起ったところからもすぐの場所だ。
 一方ホテルはマンハッタンの南の黒人の多い地区で、貿易部長が言っていたように、暗くて、従業員も殆ど黒人で夜帰ると暗闇の中から白い歯だけが見えて慣れるまで時間がかかった。 ホテルと事務所の間はかなり距離があるのに加えて、危険だとのことで、往復ともタクシーで通勤するよう厳命された。それと一緒にタクシーの行き先は十分発音に気を付けてとの注意を受けた。例えば“60丁目” “16丁目 ”を区別できるように発音を十分気を付けるよう、つまり“シクステーイン”と“シクステイ”の違いをはっきりさせる事が危険を防止するのに大変大事だと、くどいほど注意された。
 まだそのころは、ニューヨークの街中がマフィアの全盛時代で、毎日のように殺人がおきているとは、全く実感がなかった。そういえばホテルに泊まっていると、夜中に車のタイヤのパンクの音がするなと、思っていたが、それが後になってピストルの音と気が付いた。この町には色々の危険が潜んでいることが分かったが、“怖いもの知らず”とはこういうことをいうのだろうか。

 
マンハッタンでの仕事と生活 まずは会話
 

 ニューヨークマンハッタンの街中で生活するのに一番苦労したのが、言わずもがな、会話であった。ヒアリングもスピーキングもなかなかおぼつかなかったが、会社のアメリカ人の一人に聞いたところ、“兎に角、喋れ,喋れ、一日中でも喋れ”と言われたので仕事はもちろん 知らない他人でも勇気を出して喋りまくった。タクシーに乗っても話かけ、しらない人でも意識的に会話した。
 それでも一番苦手なのは、電話だった。これだけは慣れるまで、遠慮した。電話に出るときに決まり文句があるが、そんなにスムーズに出てこない。“ハロー、誰につなぎますか?”だけでもしんどかった。電話恐怖症になった。慣れてくればなんてことないのだが、電話にでるといきなり知らない会話内容が飛んできて、どう答えていいか、瞬時にはまったく判断できない。
 ホテルの食事は味は塩辛いのを我慢すれば何とかいけたが、大したものにはありつけなかった、その中で大変嬉しかったのが、街頭で売っていた“アイダホポテト付きTボーンステーキ”で確か5ドル位だった。街頭売りにしては大変うまかった。ニューヨークは貧乏人でも暮らせる街だなとも思った。でもたまには日本食が欲しくなったが、簡単なものでも12~15ドルするから、そのころはめったにお目にかかれなかった。しかし日本食を食べるときだけはまともな日本語を話す機会に恵まれた。
 ここまでは単独行動の訓練のようなもので、このころから単独行動が出来るようになったのだと思われる。今にして思えばその事が、大げさに言えば、その後の私の人生に大きな変革をもたらしたイベントだったと思う。

 
何も知らずに夜の市内観光
 

NYの仕事を始めてから、2週間ほどした頃、それまで全く市内観光をやる暇がなかったので、たまの日曜日の夜に、適当な夜の市内観光ツアーを申し込んだ。まだまだバスの観光案内の会話が聞き取れるレベルではなかったから、今にして思えば無茶としか思えない行動だった。市内案内の場所も良く聞き取れないまま、いきなり市内観光のバスツアーに乗り込んだ。5か所のホテルのバーに案内され、そのたびにアルコールをふるまわれかなり飲んだが、そのおかげで、バスの中でトイレに行きたくなった。ツアーは途中下車することが出来なかったが、緊急にトイレに行きたい!と単語の羅列で何とか途中でバスを止めてもらって途中下車はできた。しかし何処に行って良いかが分からないでいたところ、親切な乗客の一人が一緒についてきてくれて、とあるバーの中のトイレまでついてきてくれたが、そこは閉まっていた。外にでるとその人が待っていてくれて,上手くいかなかった事を告げると、更にもう一軒を案内してくれ、無事にOKになった。まさかこんな人がいるとは想像もしなかった。その人は私の下手な表現を見てとって、本当に困っている事を察してくれたのだろう。言葉のうまい下手もあるが、それよりも相手に伝えたいという気力のほうが大切だと、本当に実体験から学んだ。その件以来、会話は伝えたいという意思を大事にすることにした。そしてそれからは外国語の会話は出来るだけ単純な単語で話すことにした。それよりもむしろ発音を重視することの方が遥かに大事のような気がする。
 話が少々外れるが、このことを書いていたら東京の地下鉄での出来事を思い出した。地下鉄の中で外国人の女性が四谷、四谷と叫んでいたのだ。それ以外は話せない様子だったが、それだけでもその女性が何をしたいのかが、誰でも分かる。流暢な日本語で聞かれるよりは、遥かに迫力があり何をしたいかが明白に伝わってくる。私のNYの件と同じケースのような気がする。

2022-01-20 12:28:19

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