昭和15年頃、母が脳梗塞の発作で倒れた。
当時現在の小規模郵便局にあたる三等郵便局は世襲制度であり、父は郵便局長の二代目であった。そのため母は窓口の貯金の主任のような仕事をしていた。父は郵便局長会の副会長を勤めていて局にいない事が多かったので局に母が居る事で安心感をもっていたらしく、母が体の不調を感じて局の仕事を辞めたいと申し出たが父はこれを許さなかった。そして一年ばかり経った後母が軽い脳梗塞で倒れたので父はあわてた。幸い母は何とか回復したが、不自由な身体になった。
家には女中もいたが姉がお嫁に行き、私も昭和19年2月に現役兵として世田谷の東部十二部隊に入営する事が定まっていたので、そうなると父と病気の母と二人きりになって寂しくなり、また隣近との付き合いも充分に出来なくなるので嫁が欲しくなったらしく、父は私に嫁をもらったらどうかと言い出した。
私は、結婚は勿論兵役から帰ってからと思っていたが、当時すでに旧制中学校卒業後で東京商科大学商学専門部(現一橋大学)に入学し、家業を継ぐため一ヶ月で中退して逓信官吏練習所(後の郵政大学校)に入学していた。私は逓信官吏練習所に入学した時点で郵政省の職員となって就職は事実上定まっており、又結婚したいと思う人もいたので婚約ならしても良いと思った。その時私は、19才であったが、結婚の相手として考えた時、ある人以外は考えられなかった。その人は父親が同じ郵便局長であり、彼女の叔父が隣家の親戚に婿に来ていた関係で時々隣家に遊びに来た時の遊び相手であり、「猿飛佐助」「後藤又兵衛」「塙團右衛門」などの少年講談の本などを貸し借りして幼馴染であって、そのうち私はいつしか戀心を持つようになっていた。そこで両親には彼女なら婚約しても良いと回答した。彼女の父は既になくなっていたので、私の父が彼女の母に話した所、父親のかわりに戸主となった長男に相談し、長男が良三さんは良い人だからと同意してくれた。彼女は旧制高女の4年で16才であった。長男次男はまだ幼くいろいろ迷いもあっただろうが最終的に彼女の同意も得て婚約が成立した。
昭和19年(1944年)2月5日私は現役兵として東部第12部隊(世田谷の砲兵隊)に入隊し3月5日渋谷駅から満州(中国東北地方)に向け出発した。
入菅の日 昭和19年(1944年)現昭島市
出発する10日前の2月24日に家族との最後の面会があった。場所は代々木の練兵場、その時母は脳梗塞で倒れたあと外出が困難であったため会いに来られず、会いに来たのは父と婚約者、それに世田ヶ谷に住んでいた叔母の三人であった。その日はあいにく風が強い日で面会の場所は風が舞い、砂埃りの立った場所だったが私たち三人は婚約者が作って来てくれた「おはぎ」を皆で食べて別れた。当時すでに太平洋戦争の戦局は不利に傾いていたが後に「嘘の代名詞」と言われた大本営のでたらめ発表報道と、強い言論の統制のため、また本格的な米軍の本土空襲も始まっていなかったので漠然とした不安はあったが、まだ戦場に赴くというような危機感はなかった。婚約者がいたせいもあったかも知れないが何年か後には無事に内地に帰れると思っていた。
然しこの別れは後で考えてみると夫と妻、恋人たち、親と子の人生の最後の別れになった人も多かったようだ。当時部隊が海外に出動する場合、数日前に家族と対面させて別れを告げるのが常だった。私の写真集「昭和平成の思い出」では解説文のこの別れの部分が個人なものだということで編集者にカットされてしまったのが、戦後生れ編集者には、出発前の別れが最後の別れになった家族の多かった事は理解出来なかったのだろう。
3月5日渋谷駅を出発した私達は東海道線で博多(福岡)迄行き、博多から韓国の釜山港に上陸しそこから広規の南満州鉄道で3日間位走ってハルピン郊外にある世田谷砲兵隊の現地部隊の所在地ソンジヤンに到着した。そこはハルピン郊外の広々とした原野の中にあった、そして現地の山砲兵28聯隊に入隊して初年兵としての生活がはじまった。私は昭和18年5月に逓信官史練習所を卒業し(当時の社会的状況で卒業が早められたため)東京中央郵便局外国郵便課に配属されており、大学在学中に徴兵猶予の取扱を取り消された学徒出陣の人とは違っている。
ハルピンの山砲兵28聯隊に入隊しても初年兵であったから外出は一切許されず、ロシヤ革命から逃れて来て満州に来た人々によって建設されたと言われるハルピンのロシヤ風の美しい街を見る事はできなかった。
あとで内地に帰還してから聞いた話では、ソンジヤンの近くに関東軍防役給水本部(通称731部隊)と細菌兵器の研究所があり部隊長は京都大学医学部出身の陸軍軍医中将の石川四郎氏で1936─45年の終戦直前まで中国人捕虜を実験材料としてペスト・赤痢・コレラ・チブス菌やリケッチヤ・ノミなどを使って細菌兵器に関する研究を行い、終戦直前ソ聨軍進入により内地に帰還する直前研究所を丸ごと爆破し内地に帰ってからは細菌兵器に関する資料を連合軍総司令部に提出したかわりに戦争犯罪人になることを免れたと言われている。一説によれば総司令部は来るべき米ソ対立にそなえて細菌兵器の必要を感じていたのでこれを受け入れたと言われているが、もし細菌兵器の事で研究所のメンバーを戦争犯罪人として起訴した場合、日本側弁護人が原爆投下を持出してこれを理由に反論するのを恐れたためとも言われている。この部隊で研究に従事したのは約10年間に延2600人の軍属技師として動員された学者・研究者であった。[註1] ソンジヤンでは私は訓練を終って帰る頃、北満の原野の地平線に真赤な丸い太陽が沈む雄大なスケールの光景が深く心に刻まれた。然し私達が入隊後2ヶ月あまりで部隊に出動命令が下り、私達は初年兵で訓練中のため残されたがそれ以外は全員国外の戦場に出動して行った。行先は定かではないが一説によれば全員西太平洋のテニアン島で玉砕(全滅)したとも言われる。私達初年兵は軍事訓練を続け、チチハルの部隊に転属したがこの部隊も1ヶ月すると出動命令が下り全員南方に出動して行った。風のうわさに聞いた所では部隊は宮古島に上陸し警備に当たっていたが、マラリアで多くの犠牲者を出したとも言われるが確かではない。チチハルの時代は短い期間であったが、一度だけ部隊の用事で外出の機会に恵まれた。チチハルは見た所は八王子位の町であり特色のない町に思えたが、ただ一つ記憶に残っていたのは名前は忘れたが慰安所を示す看板がかかげられた建物の前を通った事だった。それがいわゆる朝鮮人の従軍慰安婦が営業させられていた所かどうかは前を通っただけだから解らなかった。
この部隊でも私達は一応幹部候補生にはなっていたがまだ甲乙の選抜試験を受けておらずまだ訓練中であったので私とF君と言う名前の二人の候補生が残され列車を何日か乗りついでソ連(現ロシヤその他)との国境に近い黒河省山神府と言う町にある野砲兵57連隊(現隊弘前)に転属した。そこは少し平地より高い所にある高原の様な所で大きな樹木はなく潅木が少しある様な所に兵舎があった。黒龍江を隔ててロシヤのブラゴエチェンスクと言う町があり満州国側には黒河という有名な町がありその黒河から南へ2里半(10キロ)ばかりの所に山神府があった。
ちょっと説明すると、戦前の軍の制度では入隊すると旧制中学卒業以上の人は幹部候補生を志願する資格があり訓練終了後試験があり合格すると甲種合格者は見習士官を経て少尉に、乙種合格者は軍曹又は伍長に任命された。しかし、尋常小学校及び高等小学校の卒業生は二等兵、一等兵、上等兵止まりでその上の伍長軍曹などの下士官などにもなかなか成れず、ましてや指揮権のある少尉には絶対になれなかった。この様に戦前の軍隊の中にも上官に対する絶対服従の他に学歴による差別が厳然としてあったのである。
話をもどすと山神府はチチハル・ハルピンよりずっと北にあり冬の寒さはずっと厳しかった。室内はオンドルに石炭を炊いていたので暖かったが野外は冬は氷点下40度にもなった。従って冬の服装は手袋の上に防寒手袋と言う指がない手袋を着用し、頭には防寒帽をかぶりその上に鼻あてをあて目だけが出ている様な服装で通した。尾籠な話だがトイレは水洗式にはなっていなかったので排泄物が堅く氷の様になってしまいツルハシで砕いて平にして使用する様な事が何回もあった。ただそんな状況でもロシヤ娘はシベリア鉄道で西へ行く時、別れを惜しむ人達に素手で手を振って別れを惜しんだと聞いている。
こんな気象の中で私達は輓馬砲兵であったから毎日馬の世話と乗馬訓練にあけくれていた。乗馬訓練では丸い集団を作って何回もぐるぐる廻る訓練を行っているうち落馬したこともあったが、奇跡的に後に續いた馬が私の身体を踏まないで通過したため何事もなかった事もあった。然しその時眼鏡を毀してしまったので内地にいる家族に手紙を出して同じ物を送ってもらった事もあった。私は初年兵であったから直接大砲に触れる事は少く、訓練の余暇には夜准尉殿の音頭で軍歌を歌ったり、余暇に部隊を挙げてカモシカを盆地に追い込んで捕獲するというような遊びもあった。絵興は肉類が豊富であったため、その後本土防衛の目的で師団を挙げて九州に上陸し終戦まで博多湾の防衛に当っていた頃の食事より食事の内容は遥かに良かった。然し食事以外には何も食べる事は出来なかったので、お菓子が欲しくて自宅に手紙を出し御菓子を送って呉れと書いて部隊の事務や検問を担当していた準尉殿にたしなめられた事があった。
短い期間であったから軍歌の内容は良く覚えていないが最初ハルピン郊外のソンジヤンに入った時覚えた山砲兵28聯隊の歌がここでも良く歌われていてその歌だけはよく覚えている。「栄辱死生を共にする火砲を愛馬の背に托し進撃の時致りなば地平あまねく我が進路」と言うのが一番でこの歌だけは音頭を取っていた準尉殿の「軍歌始め」の号令と共によく覚えている。それともう一つ覚えているのは軍歌ではないが「黒河よいとこ誰言うた後ハゲ山前ソ連(現ロシヤその他)尾のない狐が出るそうな私も二三度だまされたほんとにほんとに御苦労ね」という戦前の流行歌の替歌である。又歌ではないが当時日本の大陸進出の象徴であった南満州鉄道の事を語った「高商出でて20年今は満鉄取締線路に霜の置く頃は賞与の金が5万円(高商は東京高商・現一橋大)と言うのも良く覚えている。賞与(ボーナス)五万円は今の金で500万~1000万円位であろうか。92才の私は今介護付き老人ホームの中でカラオケ教室へ通って歌謡曲に熱中しているがその原点は案外こんな所にあったのかも知れない。
又当時満州駐在の陸軍の中では私的制裁の禁止と言う事が軍命令として出されており、戦後文学にいろいろ描かれている様な軍隊内の残酷ないじめはなかった。そしてこの地で一冬を過した後、幹部候補生の甲乙に別ける試験があり私は甲種候補生になる事に失敗して乙種幹部候補生となり、まもなく陸軍軍曹に任官した。しかし将校も消耗するらしく2回目の試験があり今度は合格して将校勤務適任証をもらった。1回目の試験で甲種に合格した人々は俸天の予備仕官学校に集められさらに教育を受け陸軍少尉に任官する予定であったが昭和20年(1945)8月8日のソ連軍の満州侵入によりシベリアに捕虜として送られたとも言われているが定かでない。
任官後は従来の馬術・野戦砲兵としての訓練にかえて「暗号手」としての訓練を受けた。暗号と言ってもそれ程難しいものではなく「乱数表」と言う表の数字で文字を表わして、それを文字の替りに意思疎通の手段として他の部隊に伝えると言うものであったが、訓練だけで実戦に使用することはなかった。然し北満の厳寒の地に一冬をすごし、情報は不足していたので充分に判断は出来なかったが、沖縄が米軍に占領された事は伝わっており日本が負けるとは思わなかったが戦局が好転を望めず恐らく持久戦になるだろうと思われ、そうなればこの山神府の地に何年も過さなければならないと思い故郷の婚約者や母の事を思うと暗然とした気持になる事が時々あった。
然し運命はわからないもの、一冬を過した昭和20年(1945年)春に、57師団に出動命令が下り師団長上村中将以下全ての将兵は4月3日山神府を出発した。行先は南方と言うだけで具体的には知らされなかったが、新しい夏服の制服が渡された。手袋はなく素手だったので乗車の為整列した時とても冷たくて手が冷たいのをやっと我慢する程だった。我々は列車に乗って出発しやがて満州と朝鮮との国境を越え4月7日朝鮮半島の東側にある清津港のすぐ北にある羅津港に到着した。ここで師団は兵器弾薬馬匹食料等を羅津港に停泊していた四隻の輸送船に積込み、4月9日積込作業を終わった師団は駆逐艦と航空機二機が護衛し朝鮮半島がかすかに見える様な形で一路南下した。
日本本土の空襲は既に始まっていたが、米軍がにぎっていた制海制空権はまだ日本海側には具体的な攻撃として及んでいなかった。我々はどこへ行くかよく解からなかったが4月10日夜、船は玄界灘にかかり、満州へ出発するとき通った海であるから我々が内地すなわち日本本土に向っている事を確信した。軍部は沖縄が米軍に占領された後、九州に米軍が上陸するものと想定して関東軍(満州国に駐屯していた軍隊)の大動員を行い関東軍の8割は九州の防衛に当たることになった。当然の事ながらソ連軍が満州に侵入した時関東軍の兵力は2割にすぎずソ連軍の攻撃の前にひとたまりもなかった。
然し九州防衛を目指す我々は玄界灘を通過した時、とにかく内地に帰還できることがやはり嬉しかった。私は船倉から甲板に出て風に吹かれながら思わず軍歌を歌っていた。歌は一番目が「海ゆかば」の歌二番目が軍隊に入って最初に歌った「山砲兵28聯隊の歌」そして最後が霧島昇の歌った「誰か故郷を思はざる」である。風の強い甲板で思い切り歌った時の嬉しさを死ぬ迄忘れる事は出来ない。11日朝、夜があけると船は博多港につき我々は無事上陸した。上陸地点の近くに小さな桜の木が一本あり美しい花を咲かせていたのが印象に残っている。
我々は博多(福岡)郊外の山中に入り大砲を博多湾に向けた。同時ににわか造りのバラックの兵舎を建てここで生活していた。風呂はドラム缶の風呂に入ったが、ある時入営するときに頂いた千人針の腹巻を脱いで見るとシラミがいっぱいわいていたのを覚えている。
千人針
給与は満州の山神府にいた時よりずっと悪く内地の物資の欠乏を実感した。将校の中には地面に寝る様な生活の為か、お腹をこわして外目にもわかる位やせた人もいた。従って米軍の本土爆撃でも博多の大空襲の時も山の中にいたので花火を見ている様な感じであった。そのうち米軍の爆撃から大砲や武器弾薬、兵員を守るため山の中腹に横穴を堀りはじめた。
途中で終戦になりやめたが、私もその横穴堀に参加した。全くの素人が穴掘りをする事は深く掘り進んだ場合大変危険な事であったが、ここでも私は運に恵まれた。なぜなら軍艦からの艦砲射撃や焼夷弾攻撃はB29と言う大型爆撃機により行われたが、その他に航空母艦から発進するP51と言う小型機による直接銃弾による地上の人々への攻撃が行われ、軍隊にいた我々よりも民間人のほうが通勤途中や配達途中の人々も襲われ地面に伏して免れたり犠牲になったりした人も多かった。更に空爆攻撃による火災のために多くの人が犠牲になった。東京大空襲では十万人の死者を出したと言われる。
報道管制のため真実を全く知らなかった我々も、出征前すでに初戦の真珠湾攻撃で成果を挙げた山本五十六連合艦隊指令長官の戦死や昭和18年の学徒出陣などで戦争の前途に一抹の不安を感じていたがそれが現実のものとなったのである。
戦争に行かないものも根こそぎ軍需工場に動員された。妻は父が後の労働基準監督署の様な所に榎本良三の嫁であると届出たため動員はされなかった。しかしそのかわり婚約中で正式に結婚していないにもかかわらず、養蚕の盛んな純農村の嫁として取扱われ、婚家にいる様義務付けられたらしく空襲警報下しばしば羽村の家から青梅線拝島駅に降りてそこから1.6キロの道を榎本家迄で通う日々が続き、又その間16・7才の若い身空で農村の嫁としてのいろいろな古い行事に付合う事を強いられた。家では満州国山神府からの私の手紙が来なくなったので消息不明の状態が続いていた。私が博多に着いてから出せば簡単な手紙なら出せないことはなかったが、手紙を出すのを怠っていた。
こんな状態で運命の日、昭和20年8月15日を迎えたのであった。
日本の無条件降伏によって戦争が終わった日、私は博多郊外のバラックの兵舎の前でポツダム宣言受託の天皇の玉音放送を聞いたが、正直言って良く解らなかった。が、そのすぐ後で戦時中県知事の上に置かれた九州地方長官の放送によってはっきり戦争が終わった事を知った。私は率直に言ってくやしいと言う様な気持ちはなかった。逆に戦争が終って故郷に帰れる事が嬉しかったのである。同時にほっとした気持ちになった。然し戦争が終わって8月末から9月始めには内地にいるほとんどの部隊は解散し将兵は帰郷出来たが、我々の部隊は解散せずそのままでいた。その理由は何故か今でも良く解らないが一説には風水害による山陽本線の不通によるとも言われ、或は風水害が原因でなく広島付近の原子爆弾による破壊により不通になっていたとも言われいずれが本当か良く解らない。然し後から考えて見ると原爆直後の広島を通過しなかった事はむしろ幸運であった。
結局終戦から一月半近くたってから部隊は正式に解散し私は軍歴調書・善行証書・兵科将校勤務適任証書等を受取り、部隊の形態を残したままで山口県柳井港から小さな舟で瀬戸内港を横断して作家林扶美子の出身地として知られる尾道港へ上陸し山陽本線を通って東海道線で東京へ向った。瀬戸内海を戻った舟は前述のように皆小さな船であったが瀬戸内海は湖のように波静かであった。
戦争が終ってから私は拝島の家の玄関に足を踏み入れるまではひたすら自重しここまで来て占領軍等に逮捕されるような事件にまきこまれないように注意していた。その結果1年8ヶ月の軍隊生活でただ一度鉄拳制裁を受ける事になった。昭和29年9月中旬頃戦争が終ってもなお復員出来ないまま軍の形を残していた私達の部隊の下仕官、兵の間で軍の倉庫の甘い物や酒類などの警備が手薄であるから盗りに行こうと言う話が持上った。この企ては成功し部隊に多額の食料や甘い物・酒類等をもたらしたが私はもし総司令部に摘発され逮捕されるような事があっては一日も早く故郷へ帰る計画が挫折してしまうと思ってこの計画に参加せず宿舎のある所から数十メートル下の農家を見つけそこで一夜を過した。翌朝早く部隊に帰ったが夜中に点呼があったのであろう、そして私一人居なかったのであろう。朝部隊が整列した時中隊長が私の傍へやって来て私の頬をいきなりなぐりつけた。既に戦争は終っており私が反抗する事が出来たが郷土の土をふむ前は事故を起こさないと言う方針を取っていた私はそれを抗議しなかった。然し彼に対する恨みは70年近くたった今も消える事はない。旧制中学当時盲腸手術をした後、軍事教練を見学した時態度が悪かったのか配属将校に一度殴られた事があったが、私はおとなしい様だがどこか傲岸不遜な所があるのかも知れない。
前述の様に尾道で乗車出来たと言っても私達の乗った列車は砂利などを運ぶ無蓋車つまり屋根のない貨車であった。それに30人位乗り込んで一路東京に向った。幸い天候にめぐまれ貨車の中でぬれる様な事はなかった。ただ鈴鹿山脈をトンネルで通過したとき石炭の小さな破片が目に入って目がごろごろして困った。この話が後の車輌に聞えたらしく名古屋駅に停車した時同じ列車で復員した後続車輌に乗車していた看護婦さんが降りて来て目の中の細かい石を取除いて呉れた。とても有難かったのを覚えている。鉄道沿線の風景は米軍の空爆で徹底的に破壊され、ただ驚く外はなかった。時に静岡と横浜の町が焼野原になっていたのが印象に残った。
私達は無事東京駅に到着し、私は東京駅から中央線で立川駅に降り立川駅青梅線ホームで大勢のアメリカ兵が乗車していたのでキョロキョロ様子を見たが、別に変った様子もないので安心して青梅線に乗り拝島駅で下り歩いて家に帰った。家の前に建っている郵便局の横を通ると郵便局のガラス窓は近くに爆弾が落ちた為全部板ばりであった。
家に帰ってみると父や婚約者に会う事はできたが母に会う事は出来なかった。
母は8月15日の終戦の13日前の昭和20年8月2日の八王子大空襲の日、空襲警報が出たため自宅の柿ノ木のある付近にあった防空壕に入り、たまたま呼出されて拝島に来ていた婚約者(現在の妻)と一緒にいたが防空壕の中で脳梗塞が再発した。婚約者が人に知らせて助けだしたが間もなく亡くなった。妻には若い身空で農村のしきたりの中で嫁として苦労させたが母自身は信頼していた婚約者と最後に防空壕の中で一緒に居られた事がせめてもの幸せだったろう。郵便局の窓ガラスが割れたのは数百メートル離れた所にあった製糸工場がパラシュートを製造していた為その灯りがもれたのを目標に五百トン爆弾を投下した為と言われた。又この空襲で八王子は壊滅的な打撃を受け多くの寺院や文化財が失われた。
註1
七三一部隊の部分は国立歴史民族博物館広報サービス室より私の照会により提供された資料を参考にした。
2016-03-31 16:00:00
榎本良三のエッセイ