戦争が終わって家に帰ることが出来た私だが、そこには厳しい生活が待っていた。当時米は配給制だったが配給は月に2日分しかなく後の28、9日分は粉をこねて丸くしてそれを野菜を入れた汁の中に落としてスイトンと呼ばれたものを食べたり、かぼちゃを農家から買ってきて食べたり、少し作っていたさつまいもなどを食べたりしていた。又郵便局に勤めていた人のうち農家出身の人で自家用の米には困らない人がいて、その人に配給された米を配給された時と同じ値段で買ったりした。中には持っていた着物と交換で農家から米をわけてもらう人もいた。一方進駐して来た米軍からは、戦争中の隣組単位で時々肉の缶詰の配給があった。
そんな中で昭和21年2月24日に私達は結婚した。その日婚約者は実家のある羽村から拝島まで来るのに、駅は遠いしタクシーもないしほかに交通手段もないので人力車に乗り、近所の人が人力車を引き、弟さんが自転車で後に随行して嫁入りした。私は父と共に出迎えたが人力車に乗った文金高島田・裾模様の花嫁姿はとても美しく、写真が好きであるのに、自分自身が花婿だった事に遠慮して撮影しなかったことを今でも残念に思っている。母は亡くなっていたので拝島村に東中野から疎開していた母の妹や近所の人の手で結婚式の支度をしたが、物資が不足していた関係もあり粗末なものだった。今でもあの時母がいてくれたらなあと思っている。酒は私が直接沢井の小沢酒造まで行って五升買って来たが、結婚式が終わってからの近所の人の慰労会用に二升保留したので実際の結婚式には三升しか出せなかった。そんな粗末な結婚式でも望んだ人と夫婦になれた事はとても嬉しくて一生忘れられない思い出になった。結婚しても世襲制であった郵便局長の長男として大事に育てられた私と、やはり郵便局長と青梅鉄道の重役を兼ねていた家の長女として大切に育てられた妻は共に青年と少女の気持ちがぬけきれず、私は結婚してからも青年会やお祭りの「若い衆」に入っていて、お祭りの晩に酒に酔って玄関に倒れこみ父から妻を通して「若い衆」から抜けるよう促されたり、妻は父が旅行に行って不在のとき拝島の家は蚤がたくさん居て眠れないと言って羽村の実家に帰ってしまい母親に「蚤がいて眠れなくて離婚したと言う話は聞いた事がない」と諭されて帰ってきたりそんな新婚生活だったが昭和23年には長女を昭和26年には次女を授った。私は昭和20年10月1日に復員して直ちに職場(東京中央郵便局外国郵便課)へ復職したが都内までが遠く通勤が困難であったため拝島局へ転勤となった。
買物するアメリカ軍人夫婦 昭和31(1956)年
米軍による野外演奏会(現拝島大師隣の大日堂前)昭和32(1957)年
私が戦争から帰ったとき、立川飛行場は米軍立川基地に、昭島の昭和飛行機の飛行場は昭和基地に、福生の航空審査部と陸軍少年飛行兵学校の各飛行場は米軍横 田基地となりジープに乗ったアメリカ兵がひんぱんに往復していた。当時基地では営外居住が認められていたのでアメリカ兵用にハウスと呼ばれる賃貸住宅が多 く作られた。内装が簡単でその割りに高い家賃で借せたので、中には数十件のハウスを持っていた人もいた。従ってハウスを借りたアメリカ兵や家族子供などの 姿も多く見られた。私はこの様なアメリカ兵やその家族が近くに住んでいるという風景を見ても別に違和感は感じなかった。
敗戦直後、当時の阿南陸軍大臣は責任を負って自決(自殺)し、多くの人々が宮城前に集まって戦争に敗けた事を天皇に謝罪する人々の姿も見られ、又軍事基地では敵飛行機への体当たり戦術や出発に当って航空機の燃料を片道分しか積まない「特攻戦術」で多くの部下を死なせたと言う責任を取って自決(自殺)する将校が多くいたそうだが、私はそういった負けてくやしいと言うような感じはなくただ戦争が終わって良かったというほっとした感じで一杯だった。恐らく大部分の国民のいつわりのない感情であったと思う。軍部の言うように本土決戦をしたら恐らく今の日本の国はなかっただろう。
ただ昭和天皇に関しては戦争責任は当然あるが終戦時軍部の暴走をおさえる人は天皇以外は誰もいなかったのでとにかく軍部を押えて終戦に持ち込んだ事に好意的な気持ちを持っている。
一方軍部は米軍が本土へ上陸すれば婦女子は山へ逃げろなどと言っていた。ずっと後から解った事だが、日本軍の一部は中国大陸での戦争で婦女子に暴行を加え、家の中のものを略奪していた。そして軍の上層部はそれを知っていた。そう考えると、山へ逃げろと言う言葉は自分の罪を認めた言葉の様にも聞こえる。また連合国側では終戦直前に参戦し国境を越えて旧満州国に侵入したソビエト軍が当時満州に住んでいた日本人に対して貴金属や腕時計をはじめ貴重品を残らず強奪し、また女を出せと強攻に要求し女達は床下に隠れていたが不幸にも見付かった人はロシア兵に連れ去られて暴行をされたと言われている。その中で不幸にも妊娠した人は内地に帰還した時、上陸地点で妊娠中絶手術を受け身体が回復してから故郷に帰ったと噂されている。
前述の様にアメリカ軍の軍紀は厳正であり暴行事件等は起こらなかったが、逆に米兵の交際相手に日本の貧しい女たちが大勢集まる様になった。私の家は基地から少し離れていて立川基地周辺や横田基地周辺ほどではなかったが私の家の奥多摩街道をはさんで反対側の農家には外人相手の女性がその家の一間を借りており毎日の様にアメリカ兵が来ていた。この様に一人の米兵と交際しているのをオンリーと言い複数の米兵と交際している女性をバタフライと言ったが総じてパンパンガールと言った。そのうちの日本女性の交際相手には性病が蔓延したので米軍は立川基地付近では性病の蔓延を押さえようとパンパン狩りと称して米兵に群がる女性をトラックに強制的に乗せて病院に連行し強制的に性病検査を行い病気のあるものを入院させ、ないものは釈放したと言われている。米軍は芸者も同じ米兵の交際相手と見越して月一回の性病検査を義務付けようとしたが芸者の旦那で総司令部と関係ある日本政府の高官を通じて政治工作を行い何とか免れる事が出来た。
私達戦前派はこの様な米兵と日本の女性達の交際を見ても特別な感じを持った事はなかったが、私たちの地域に戦後生まれて戦争を知らない世代は、成長期の感受性の強い時期にこのような情景を見聞きし、また地域が外部からも三つの米軍基地にかこまれて沖縄の様な特殊な地域と見られていたので駐留米軍に対して次第に反感を持つ様になった様である。
昭和6年(1931)にその後15年にわたる太平洋戦争の発端となった日本軍による張作霖の謀殺事件による満州事変が勃発した時、私はまだ幼く事変の詳しい状況や当時の経済状態についてはよく知らなかった。ただ不景気と東北地方の凶作が重なって、東北の農家では前借金目当てに娘を娼妓として売った話が新聞に出ており、それについて父と母が話していたのを記憶している。そして満蒙の地に五族協和の王道楽土を礎くのだと言って農村から多くの移民が送り込まれた。これを満蒙開拓義勇軍と言った。
昭和11年2月の大雪の日二・二六事件が起こり軍部に批判的だった高橋大蔵大臣を始め岡田首相と間違えられた兄の松尾大佐を始め多くの重臣が陸海軍の青年将校に暗殺された事も、事件そのものは鮮明に記憶しているが翌年日中戦争が始まっても戦争について深く考える様な事はなかった。その時代の事は旧制府立二中(現都立立川高校)時代に南京陥落の祝賀の提灯行列に参加し陸軍病院(現立川国立医療センター)の前を通った時傷病兵が窓から顔を出して喜んでくれた姿が印象に残っている。
少し深く考える様になったのは昭和16年12月8日(1940年)真珠湾攻撃により日米戦争が初まった時である。「本8日未明西太平洋に於いて米英両軍と戦闘状態に入れり」と言う大本営発表は今でも鮮明に覚えている。その頃の私は大東亜戦争(太平洋戦争)の目的は東アジア民族を米英仏オランダなどの植民地支配から開放することにあると考えていた。これは当時京都学派の高坂正晃、西谷啓治氏等が唱えたもので京都学派とは「哲学の道」で知られる日本で初めて近代哲学を確立したと言われる西田幾太郎博士の流れをくむ人たちである。それに神国日本は絶対に負けないと言う小さい時からたたきこまれた信念が加わって日本の戦争は正しい戦争であると信じていた。健康な私が徴兵検査に不合格となることは考えられず、私の入営の時期が迫っていたので何とか戦争を意義付けたいと言う気持ちもあったと思う。
しかし一方で私は小さい時から歴史に興味を持ち、旧制府立二中4年の時は後に金沢大学の教授になった慶松先生から激励され、西洋史についてもギリシャ、ローマから中世ルネッサンスからフランス革命を経て英国の産業革命、イギリスの植民地から独立したアメリカの発展やリンカーンによる奴隷解放など西洋史の大筋を知っており文明国アメリカに日本が勝てるとも思わなかった。この様な雑然とした気持ちで終戦を迎えた。
昭和20年(1945)9月初め、連合軍総司令官マッカーサー将軍が厚木基地に到着し占領軍の占領政策が次々と打ち出された。それは小作人を大地主の支配から解放する農地開放令から始まり戦争責任者の追及言論・集会、結社の自由の確保、財閥解体による産業の自由競争の促進、労働組合の公認、男女同権による女性の選挙権の実施と男女共学などと矢つぎ早に実現され昭和23年(1948)の主権在民と基本的人権の確保、さらに第九条に平和条項を持つ新憲法として結実した。この憲法の実現までの過程をみて私は占領軍が解放軍の様な感じを抱いた。
当時総司令部には開戦当時の大統領でテネシー渓谷の開発を中心とする大規模な開発事業や労働組合の自由の拡大により昭和6年(1910)に始まった大恐慌を克服してアメリカ経済の立直しに成功し大統領三選を果したルーズベルト大統領のニューディールと呼ばれる政策に参加し、ニューディール左派と呼ばれた若い人々が政策スタッフとして多く加わっていたと言われている。当時の日本政府の有力者の考えは旧日本国憲法を少し修正すれば良いと言うものだった。従って新憲法は押しつけられたものには違いないが、その内容について国民の多くは反対せずむしろ歓迎したのも事実である。
私はこの様な事実を目前にして大東亜戦争(太平洋戦争)が京都学派の主張するようなアジア民族解放の為の聖戦であったかは、根本的に考え直さなければならないと思った。私はその頃から夢中になっていろいろな本を読んだ。唯物史観や社会主義の本が中心だったと思う。又戦争に対して最も批判的であった共産党の人々からも意見を聞いた。後に郵便局長選考のため郵政監察官が私の家に来た時、妻に左翼の本を隠すように言ったこともあった。通信教育で慶応大学哲学科の哲学史の単位を取ったのもこの頃で、最終的には東洋の米作いわゆる田園耕作の社会では、封建社会から近代資本主義に移る際に、封建社会の残存物が完全に破壊されず、むしろその残存物の上に近代資本主義社会が形成されると言うアメリカの学者の説を、日本の近代資本主義社会に適用し、日本の近代社会は半封建社会と結論づけた野呂榮太郎を中心とした岩波書店の「日本資本主義発達史講座」に結集した学者達の結論が、占領政策が大地主から小作人を解放する事から始まったのを見ても正しいと思うようになり、日本の大陸進出はいろいろ良い事もしたが基本的には侵略戦争であると結論づけた。
京都学派の理論でも、日本が太平洋戦争の初戦でフィリッピン・マレーシア・シンガポール・インドネシアなどを占領し旧植民地の軍隊を一掃した事が戦後の各国の独立に貢献した事は事実だが、それは日本が太平洋戦争に敗北したからであって日本が勝利していれば、封建主義を残しており、また軍国主義がその推進力となっていた日本が、一度占領した植民地を手放すはずはない。この点で京都学派の理論は根本的に間違っている。やはり日本の大陸進出は、初めとする行動はいろいろ良い点があったとしても基本的には侵略であることは間違いない。私は最後にそういう結論に到達した。一方占領軍の政策も昭和25年(1950)の朝鮮戦争を契機として米ソ対立を反映した反共へと大きく変化し「レッドパージ」等も行われる様になった。
そんな時昭和25年1月5日父が死去した。父はその前に立川病院で診てもらっていた。仕事中手がふるえるとお医者さんに言ったら手をよく使う仕事をしているからだろうと言われて安心した様だと妻が言っていた。60年前は降圧剤もなく高血圧になったら2年位しか寿命がないと言われていた。直接の死因は近所でもらったお酒をふだんあまり飲まないのに少し多くのんだ為、夜中に脳出血の発作を起こしたことだった。夜中に別室で寝ていた私に「良三」と言う大きな声がしたので父のそばに行って見るともう意識がなかった。62歳だった。私には父の最後のその声が今でも耳に残っている。
当時は世襲制度だったが局長はなかなか決らず庶務会計を担当していたNさんが局長代行に就任した。私が局長に就任したのはその年の12月26日だった。
すぐに局長になれなかった原因は、私が15年に及ぶ太平洋戦争について戦前の考え方に疑問を抱いて最も徹底して戦争に反対していた左翼の人々の意見を聞き左翼に関する文章を広く読んでいた事が言動にも現われていたのだろう。局長を決める為に特別に調査に来た郵政監察官は私の事を色々と調査した様で、その為当時の村長さんや村役場村議会の方にも色々と迷惑をかけた様だった。村に左翼政党の党員名簿の提出を要求したり村議会の推せんを求めたりした様だが私はその時は何も知らなかった。しかし後でいろいろ言われてそのことを知った。私は面接に来た郵政監察官に局舎があるからと言って無理をして局長になろうという気は全く無いと言ったがそれがかえって好印象を与えたのか結局局長に任命された。今から考えると局長に不適なら人を変えれば良く、下級公務員の人事にそんな手間のかかる調査をするなど、不思議な話だが一つには私が当時の郵政省内の最高の教育機関である逓信官吏練習所(後の郵政大学校)の卒業生であったことも慎重に調査した一因であるかもしれない。然し左翼政党の党員が公務員の管理職になれない事は今も昔も変わりはないのである。下級公務員の人事であるにもかかわらず慎重であったもう一つの理由として、 70年前当時で明治5年以来140年の郵便局制度の発展に尽くしてきた三等郵便局の請負制度の伝統の強さもあって小さな村の局長選考がこんなに時間がかかったものと思われる。
私はこの事で近所からも色々言われたが心強かったのは妻が一貫して私を支持してくれた事である。こうして私はその後40年間拝島郵便局長として平成元年に退職するまで勤める事になった。
昭和25年の朝鮮戦争(注)は前にも記した通りアメリカ占領軍の政策が反共へと大きなカーブを切る節目ともなったが、日本は米軍の戦争の物資補給基地の役割を果したので日本経済にとってはその回復に大きな役割を更した。経済白書でもう戦後でないと書かれたのは昭和31年(1956)の事であった。
(注)朝鮮戦争 昭和25五年(1950)中国ソ聯の後援のもとに北朝鮮労働党第一書記の金日成が朝鮮半島の武力統一を目指して韓国領内に侵入し韓国軍は釜山地区の一角に追いつめられたが在日米国軍が韓国軍の応援に出動し韓国の西側に上陸して北朝鮮軍と戦い逆に米軍は北朝鮮領内に侵入し中国との国境近くまで追いつめた。ところが北朝鮮の友好国である中国は北朝鮮を助けねばならないと毛沢東の命により大量の軍隊を投入して北朝鮮領内に侵入して米国軍と戦った。在日米軍総司令官マッカーサー将軍は中国本土への原爆攻撃を主張したがアメリカ大統領に受入れられずマッカーサー将軍は解任された。戦争も結局米中の妥協により現在の国境線で協定が成立し現在の38度線が国境と定められ民族の分断は続くことになった。
2016-03-31 16:12:00
榎本良三のエッセイ